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チベット大虐殺に沈黙する平和・人権団体

日本の平和・人権団体は似非だった。平和を叫ぶ広島人はどう思うか?


Sauthoronwardtibetorg


 外出しても、何を叫んでも、殺されないこと


 これがチベット人が望んでいる「自由」であり、この声を日本の平和団体、人権団体はどう捉えているのでしょうか。


 平成20年(2008年)3月10日、チベットのラサで僧侶や尼僧を含む10人がチベットの旗を振り、ビラを配っていたところ、中共の武装警官がやってきて殴るなどの暴力で制圧しました。同日、300人規模のデモも行われましたが、これも数千人規模の武装警官に封じ込まれ50人以上が拘束されました。これを受けて翌日には600人規模のデモとなりました。14日、僧侶を中心とする数十人が座り込みの抗議活動をしていたところ、武装警官が僧侶たちに殴る蹴るの暴行を加え、数人の死者がでてしまいます。そして怒ったチベット人たちによる大規模な騒乱に発展していきました。中共政府はラサ市内に戦車や装甲車まで投入してデモを鎮圧し、大きな寺院を包囲して、事実上の戒厳令を敷きました。しかし、激化する運動は四川省や青海省、甘粛省に波及していきました。この騒乱の中共の弾圧によって多くのチベット人が命を落としました。正確な犠牲者数は不明ですが、少なくとも100人は犠牲になったと言われています。


 このラサの騒乱での中共政府のチベット人弾圧と虐殺について日本の平和団体、人権団体は一様に沈黙を守ったといいます。ジャーナリスト野村旗守氏の記事をみると3月18日になってようやくアムネスティー・インターナショナルの日本支部が中共大使館宛に抗議書簡を送ったとのことです。3月26日に日本ペンクラブ「チベットの事態を憂慮し、言論表現の自由と人権の尊重を求める」という声明を出すに留まっています。ピースボートは4月3日になってようやく声明。なんとも鈍く、アリバイ作りの匂いがします。


 野村氏によるとその理由について日本ペンクラブ「(協議の)時間的に余裕がなかった」「声明は日本国内問題に対して行われることが多く、慣例的に諸外国の事件に対しての発信はあまりおこなっていない」という答えが返ってとのことです。ペンクラブはアフガンの空爆では会長名で積極的に厳しい声明を出していたにも関わらずです。時間的に余裕がないのであれば、今後、会長名でチベット問題について声明を発表するつもりはあるのか?と問うたところ、「その予定はない」という回答が返ってきました。このほか、米兵や自衛隊の不祥事やイラク問題、中東問題にはガンガンに声をあげる日本国民救援会、自由法曹界、九条ネット、日本ジャーナリスト会議、バウネット・ジャパンは沈黙したと述べています。更に、ジャーナリスト水間政憲氏の記事でも反戦共同行動、反戦アクション、ストップ「報復」戦争・市民の会も沈黙したとあります。


 平成7年(1995年)に北京女性会議というのが行われ、亡命チベット人女性がチベットにおける迫害状況を紹介し、世界に伝えて欲しいと強く訴えました。チベット人女性の政治囚に対する激しい拷問は電気棒を用いて性的な拷問を加えるやり方ですから、初めて知った人たちは衝撃を受けたことでしょう。ところが、自由チベット協議会代表の酒井信彦氏によると、この会議は外国人5000人が参加しましたが、日本女性たちはチベット人女性の声を冷淡に無視したと述べています。たまたま会議に参加してチベット問題を初めて知りショックを受けた日本女性が、チベット人の声を日本で伝えようとしたら、周囲の妨害にあったといいます。


 現在進行形の大虐殺、世界を震撼させる現代版ホロコーストに申し訳程度しか声を出さない、あるいは沈黙するこれら平和団体、人権団体が平和や人権を守るためではなく、別の目的で動いていることは明らかでしょう。



参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」
   『日本の人権団体は黙ったままか』野村旗守
   『日本=チベット化の跫音が聞こえる』水間政憲
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『国境あり人権団体のチベット女性見殺し』酒井信彦
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
添付画像
 チベットの若い僧侶 Author:onwardtibet.org


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チベットでの衝突 真の元凶は
http://www.youtube.com/watch?v=N9ewtLNtoeY


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なぜ中共はチベットにこだわるのか

チベットは資源が豊富。



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 昭和16年(1941年)9月、英領インドの解放工作のために日本陸軍藤原岩市少佐以下10名程からなる特務機関が作られました。F機関といいます。桐蔭横浜大学のペマ・ギャルポ教授はこの藤原岩市少佐に戦後の昭和45年(1970年)に会ったことがあると述べています。藤原氏の自宅にいくと大きな世界地図があり、そこにはチベットの河の河川すべてに線がひかれていて、河川の深さや流れのスピードを測ったり、水量などを計測した数値が事細かに書き込まれていたと述べています。これは何のためなのかと聞くと「チベットにアジア全体に供給できるような水力源を作る考えがあったんだ」と述べたそうです。


 中共がチベットにこだわる理由の一つにこの「水」があるといわれています。インドシナに流れるメコン河、サルウィン川、インドのガンジス川、パキスタンのインダス川とアジアのほとんどの大河がチベット一帯をを水源としています。チベットを押さえることはアジアの蛇口を握ることなのです。命綱を握った上で、ラオス、タイ、ミャンマーの国境「メコンデルタ経済圏」へ投資して経済支配権をとっていこうとしています。また自国の膨大な水の需要をまかなうことも必要であり、雲南省に多くのダムを建設しています。


 それからチベットには莫大な資源が眠っいます。126種の鉱物の存在が確認されており、リチウム、クロム、銅、哲の埋蔵量は世界的に見ても有数だといいます。アムドには油田もあり、ガス田も眠っているといいます。鉱物資源のほか森林資源もあります。しかし中共人には山をもとに戻すための植樹という考えがないらしく、山が丸坊主になれば次を探すという行動パターンのようで、この森林伐採は深刻な環境問題になっています。森林を伐採しすぎると土砂が河に流れ出し、堆積し河底が上昇して洪水がおきやすくなります。中共で、しばしば河川の氾濫があるのは行き過ぎた森林の伐採が原因と言われています。また、森林の伐採は動物の生態系を崩し、ジャイアントパンダなどの希少動物が絶滅してしまう危険を生んでいます。


 あと良く知られているのが軍事拠点としての天然の要塞となりうることと、増えすぎた中共の人口の受け入れにすることがあります。そして今では観光の収入も欠かせないものとなっています。チベット自治区に訪れた旅行者は平成19年(2007年)には400万人を突破(前年比60%増)となりチベットの地域のGDPの70%を占めるといわれています。そしてそこに民族融和政策の「ショーケース」として政治的な利用価値があるのです。それから奪った財宝で「大チベット展」を開き、収益を得て、「チベット文化を大切に保護している」とアピールしています。これに加担しているのが朝日新聞とTBSです。


 さらにチベットは核廃棄物の投棄場になっています。その管理はずさんなもので、安全性の確保は10年しか保証されていないといいます。このため風化作用によって地下水が汚染されていき、その水が飲料や灌漑用に使用されていくのです。中国国家環境保護局は「1980年から1985年に1200人が放射能により健康を害し、20人が死亡した。放射能が漏れたことへの責任は、放射性廃棄物処理の規則に従わなかった管理者にもあるだろう」と発表しています。工場が排出する汚染水もひどく支那人は通告を受けて水を飲まないようにしているのに対し、チベット人は何も聞かされておらず、汚染された水を飲み続けているといいます。


 アジアを支配できるチベットの水、地下資源、森林資源、軍事拠点、観光収入、興業収入、増えすぎた人口の受け皿としての土地、核廃棄物の投棄場・・・中共にとってチベットはどうしても手放せないのです。それでも開発によりチベット人が豊かになればまだ良いのですが、漢民族が搾取しているのが実体なのです。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」『チベットと日本の百年の友情』ペマ・ギャルポ
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 WiLL2009・12『中国の悪魔の所業 チベット民族浄化政策』有本香
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   環境問題 Environment 森林 http://www.tibethouse.jp/enviroment/envi01.html
   「聖地チベット ~ポタラ宮と天空の至宝~」展に関して日本の皆様へのお願い http://www.tibethouse.jp/news_release/2009/090928_appeal.html
 WikiPedia「特務機関」


添付画像
 チベット、金箔をかぶせた青銅、サンフランシスコのアジア美術館(PD)


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中国がチベットを手放せない理由
www.youtube.com/watch?v=xWql0K8pI0o




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パンチェン・ラマ

拉致されたパンチェン・ラマ。


S9thpanchen


 パンチェン・ラマをご存知でしょうか。チベットの高僧です。ダライ・ラマがチベット人にとって「太陽」であるのに対してパンチェン・ラマは「月」であり、阿弥陀仏の化身と言われています。


 昭和25年(1950年)より中華人民共和国(中共)はチベット侵略を開始しました。中共はパンチェン・ラマ10世を利用してダライ・ラマ14世との対立構造をつくろうとしました。侵略の開始に先立ち、パンチェン・ラマ10世を利用して「チベット解放」はパンチェン・ラマから毛沢東への要請という形にしたのです。そして中共はパンチェン・ラマ10世を確保し続けました。


 パンチェン・ラマ10世は最初はチベットには改革が必要だと思っていました。ところがダライ・ラマ14世がインドに亡命した2年後の昭和36年(1961年)、中共の国内の視察にいくと、中共はやっていることと言っていることが違うということに気づきます。そして昭和37年(1962年)、パンチェン・ラマ10世は毛沢東に7万言の意見書を提出し、中共政府の政策を批判しました。このため投獄され、80年代まで軟禁状態にされます。


 昭和39年(1964年)、中共はパンチェン・ラマ10世にダライ・ラマ14世を批判させようと企みました。そしてラジオで演説させようとしたところ、パンチェン・ラマ10世は原稿を無視してマイクに向けてこう語ったのです。


「私は一日も早くダライ・ラマ法王が玉座に戻り、そのもとでチベット民族が繁栄することを希望しています。ダライ・ラマ万歳」


 パンチェン・ラマ10世は昭和54年(1979年)に漢民族の女性と結婚し、一女をもうけます。中共は「チベット族と漢族の架け橋」と宣伝します。パンチェン・ラマ10世の派の僧は結婚してはならないことになっていましたから、中共の謀略です。
 パンチェン・ラマは恥辱にまみれながらも文化大革命で破壊されたチベットの寺院の再建に力を尽くします。中共はダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係を悪化させようと企みますが、昭和60年(1985年)、モンラム祭をラサで祝う集会の席で、パンチェン・ラマはこう語っています。


「ダライ・ラマ法王と私は、精神的な絆で結ばれています。法王と私は一心同体なのです。世の中には私たちを対立させようともくろんでいる人がいるようですが、それは無駄な骨折りです」


 昭和62年(1987年)3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会において、パンチェン・ラマは、教育、経済開発、移住、チベット人への差別待遇などについて、中共政府のチベット政策をあからさまに批判します。
 平成元年(1989年)1月24日には、中共によるチベット支配をシガツェで再度非難し「チベットは中共から得た恩恵よりも中共によって失ったもののほうが大きい」と述べます。このときも中共政府が用意した演説原稿を無視して演説したといわれており、この歴史的な反中声明を出してからわずか4日後、パンチェン・ラマ10世は謎の死を遂げました。


 パンチェン・ラマ10世の死後、チベット人僧侶によって平成7年(1995年)に後継者の6歳のニマ少年を探し出し11世を認定します。しかし中共政府は別の少年を転生者として11世としたのです。平成20年(2008年)のチベット騒乱で「愛国的メッセージ」を述べたのは中共の造ったパンチェン・ラマであり、本物のパンチェン・ラマは中共によって両親と共に隔離されています。その生死は現在も不明です。



参考文献
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『中国に操られた朝日のチベット報道』酒井信彦
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   パンチェン・ラマ10世 http://www.tibethouse.jp/history/panchen_lama.html


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 パンチェン・ラマ9世 1900年(PD)


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チベットにおける中国軍の蛮行

www.youtube.com/watch?v=hTKNENM2WoQ


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チベットと日本人

日本と友好の歴史があった。


S1910


 チベットは本来独立国でありながら、中華人民共和国に侵略され、120万とも言われる大虐殺を受けた国です。現在では一部はチベット自治区として中共の版図に組み込まれ、そのほかは青海省、甘粛省、四川省、雲南省に編入されています。チベットは仏教の国であり、歴史をみると日本と友好関係にありました。


 初めてチベットに日本人が訪れたのは明治24年(1891年)のことで河口慧海(かわぐち えかい)というお坊さんです。河口は日本に伝わっていた仏教の経典の内容に疑問を抱き、インドの原典の内容をとどめているというチベット語の大蔵経を入手しようとチベットに入国し、ダライ・ラマ13世に謁見しています。河口慧海は明治36年(1903年)に帰国し、「西蔵旅行記」を刊行します。この書は一躍人気となり、本当に彼がチベットへ行ったのか、という真偽論争まで巻き起こったといいます。


 矢島保次郎は明治44年(1911年)にラサに入り日本との提携を説いて回ります。元日本軍人として日露戦争に従軍していた経験を買われ、チベット軍の軍事顧問に招かれ、ダライ・ラマ法王の目にとまって法王の親衛隊長まで務めました。日露戦争がアジア、アフリカに与えた影響は大きく、チベットも例外ではなかったのでしょう。アジアで唯一西洋に対抗できる力を持った国は日本だと見ていたと思います。残念ながら日露戦争の間にイギリスはチベットに影響力を持つようになっており、矢島保次郎はイギリスの圧力により大正7年(1918年)に日本に帰国することになりました。


 青木文教は仏教大学(現・龍谷大学)大学院生のときに西本願寺法主・大谷光瑞の命でチベットに派遣され、大正元年(1912年)にラサ入りを果たします。ダライ・ラマ13世の信頼が厚く、チベット国旗(雪山獅子旗)をデザインしたといわれています。(異説あり) 青木はチベットを離れる前の晩、ダライ・ラマ13世と同室で就寝したほど現地に深く溶け込んでいたといいます。


 多田等観(ただとうかん)は日本に留学していたチベット人僧侶の世話役を務め、彼らに日本語を教え、自らチベット語を習得しました。明治44年(1911年)、ダライ・ラマ13世から留学僧に帰国指示がでます。多田は留学僧に請われてともにインドへいきます。そしてインドでダライ・ラマ13世に謁見すると、多田はチベットのラサへ来るよう要請を受けます。そして1年後、イギリスの官憲の目をかいくぐりヒマラヤ越えへでラサに入りました。ダライ・ラマ13世は多田をチベット三大寺院のひとつ、セラ寺に預けて、国際情勢の説明役の地位を与えました。


 日本がアメリカ、イギリスと対立をして禁輸によって苦しめられた第二次世界大戦の前のころ「同じ仏教国が苦しい思いをしているのは看過できない」としてアメリカに売却予定だった羊毛を日本へ大量に送ってくれたことがあります。日本と連合国の開戦後に連合国から支那への物資輸送ルートを要求したときもチベットは拒否しています。これはチベットへ渡った日本人が肯定的に捉えられたほか、多田等観らが日本にきたチベット僧侶に好印象であったからだといわれています。


 戦後、チベットは中共の侵略を受けました。昭和42年(1957年)、ダライ・ラマ14世がタイ経由で来日されています。このとき、来日に尽力したのが読売新聞社主の正力松太郎でした。東京でチベット展覧会を開催しました。展覧会に置かれた地球儀にはチベットは中共とは異なる国として描かれていました。中共は抗議し、展覧会のガラスが割られるという妨害があり、さらに中共は読売新聞の記者を中共から追放するなどしています。


 日中国交回復がなると日本の政治家は中共に遠慮し、マスコミは中共に対して批判的なことは口にしなくなりました。平和団体も人権は団体もほとんどがチベット問題には沈黙しました。唯一、安倍晋三首相(2006年当時)が胡錦涛主席に向かって「チベットでの人権状況に憂慮している」と述べたのみです。



参考文献
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『チベットと日本の百年の友情』ペマ・ギャルポ
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『日本=チベット化の跫音が聞こえる』水間政憲
参考サイト
 WikiPedia「青木文教」「チベットの旗」


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 ダライ・ラマ13世1900年(PD)


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【チベット問題】天台宗僧侶の涙ながらの声明【生放送】
www.youtube.com/watch?v=jzAWOmYpoLcp>

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ラサ蜂起、ダライ・ラマの亡命とチベット亡命政府

ラサ蜂起、血塗られた金曜日。


S20104



 昭和25年(1950年)より中華人民共和国(中共)はチベット侵略を開始します。当初、中共人民解放軍はチベット人に対して親切にふるまいましたが、やがてその本性を現していきます。こうした中共にいちはやくカンパ(カム地方の人)が抵抗を開始し、ゲリラ戦を展開するようになります。中共への抵抗は全国的な機運となっていきました。共産党政府はこうした状況に苛立ち、チベット人の指導者であり象徴であるダライ・ラマ法王の身柄拘束に動きました。

 昭和34年(1959年)3月、中共はダライ・ラマ14世に「人民解放軍司令部での観劇」に招待します。ラサの中共軍の駐屯地です。しかも「警護をつけない」「出発の際、儀式をしない」ことを条件とする異様な“招待”でした。法王側が断っても中共軍は執拗に要請し、徐々に脅迫の色合いを帯びてきます。
 3月10日、中共が法王の「拉致」を企んでいると察知したチベットの民衆は迎えにきた中共のジープの進入を阻むため、ノルブリンカ宮殿の周囲に集合。チベット全土から民衆が集結し、30万人にも及びました。人々は法王が招待に応じないよう叫びながら「チベット独立」「中国人は帰れ」とシュプレヒコールを続けました。11日、1万2千人の女性がポタラ宮殿前をデモ行進しました。共産党政府は武力制圧を示唆し、チベット駐留軍を増強し始めました。

 19日、人民解放軍がノルブリンカ宮殿へ向けて一斉に砲撃を開始。宮殿は徹底的に破壊され、周囲にいた民衆は木っ端微塵に吹き飛ばされました。「血塗られた金曜日」です。9万人に及ぶ犠牲者が出ました。中共側はダライ・ラマ法王の命を狙っていましたが、法王は3日前に極秘裡に脱出し、インド国境へ向かっていました。

 そして4月20日、8万人の民衆とともにインドへ政治亡命したダライ・ラマ14世は、チベット亡命政府を樹立し、中共に強制的に結ばされた「17条条約」の破棄を宣言したのです。この宣言についてジュネーブの国際司法委員会(ICJ)は法学的見地から次のように結論づけています。

「中国が17条条約に違反したことで、この条約の拘束力は失効し、チベットは条約下で失われた独立国としての主権を回復したと見なすことができる」


 チベット亡命政府は昭和35年(1960年)5月にインド北西部のダラムサラに移ります。正式には中央チベット行政府 CTA (Central Tibetan Administration)と言います。13万人に及ぶ亡命チベット人の福祉を守っています。
 チベット亡命政府には憲法があり、自国の建国について「釈尊(ブッダ)の教義に基づいて建てられた」としててダライ・ラマを最高首長としていますが、完全な信教の自由を保障しています。そのほか「戦争と武力行使の放棄」があります。
 チベット亡命政府は三権分立があり、立法、行政、司法機関があります。立法はチベット亡命会議があり、亡命チベット人の直接選挙によって選ばれる46名の議員で構成されています。行政は宗教文化省、内務省、財務省、文部省、公安省、情報・国際関係省、厚生省があります。司法は「亡命チベット最高司法委員会」という裁判所がありますが、亡命チベット人は滞在国の法律に従って生活しているので、亡命チベット人社会の民事問題を裁くのが主な役割のようです。

 ダライ・ラマが亡命してもチベットではアメリカのCIAの援助を受けて、ゲリラ部隊が抵抗を続けていました。しかし、アメリカは泥沼化していたベトナム・インドシナ情勢打開のためにソ連と関係が悪化していた中共と手を組んでしまいました。チベットへの支援は打ち切られました。チベット人ゲリラ部隊は人民解放軍とネパール軍に挟み撃ちにされる危機に瀕する事態に陥り、まずネパール軍と戦う決意をします。そこにダライ・ラマ法王からのメッセージを録音したテープが届きました。

「祖国防衛のためにチベット国内で中国人と戦うのはやむを得ないが、他の民族の地で血を流す権利はどこにもない。我々が幸せになるために他の民族の幸せを踏みにじっていいということもない」

ゲリラ部隊は涙ながらにネパール軍に投降しました。チベットの武力抵抗は終了しました。



参考文献
 文藝春秋「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子(編)
   『胡錦濤への聖火は許せない』櫻井よし子
   『中国のチベット・ジェノサイドの恐怖』三浦小太郎
 祥伝社「チベット問題を読み解く」大井功(著)
 扶桑社新書「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(著)
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   中央チベット行政府 http://www.tibethouse.jp/cta/government.html

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 2010年4月チューリッヒで大聖堂-ヤードの上 Author:Roland zh


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【暴れる中国人】チベット旗を暴力で奪い取る【気味悪い】
www.youtube.com/watch?v=4K1XctEI0DU





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