かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

死闘!加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース

こっそり参戦してきたアメリカのフライングタイガース。


Sp40c

 フライングタイガースというのはアメリカ陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートがルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集めた航空部隊のことで、アメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で、中華民国軍として兵籍に入りました。ほとんどは米軍人で退役の形をとりましたが、米軍復帰は約束されており、真珠湾攻撃前の姑息な方法によるアメリカの参戦であり、中立違反です。(アメリカ合衆国義勇軍AVGという)


 このフライングタイガースと日本陸軍飛行第六十四戦隊・加藤隼戦闘隊が激戦を交えています。昭和16年(1941年)12月25日のラングーン空襲で、25機の隼で九七式重爆撃機を護衛していた時にフライングタイガースと交戦。宿命の対決の幕が切って落とされました。


 昭和17年(1942年)3月21日、加藤隼戦闘隊はタイのチェンマイ飛行場に集結。フライングタイガースはビルマのロイウィン、ラシオ付近に展開していました。
 4月6日、フライングタイガースP-40トマホークがチェンマイ飛行場を空襲します。P40の航続距離から考えると不可能と思われていましたが、中継基地をつかっての空襲であり、奇襲となりました。
 4月8日、加藤隼戦闘隊はローウィンを攻撃します。このとき戦隊が得ていた情報はフライングタイガースは既に戦力を消耗しているという情報でした。そのため実戦経験のない搭乗員も連れて行ったのです。しかし、フライングタイガースの戦力は十分残っており、しかも待ち伏せされており、戦隊が地上攻撃をはじめたとき約20機のP40がまともに上からかぶさってきました。苦しい戦闘の末、戦死1、未帰還3という結果となります。エース中のエース、安間大尉が戦死し、三人未帰還という損害を被りました。フライングタイガースは現地のシナ人を使って地上から監視させ、無線などで日本機の進行コースなどをAVG司令部に知らせていたのです。


「不覚であった!」


加藤戦隊長はチェンマイ飛行場へ帰還すると沈痛な表情でつぶやきました。この日の夕食時、加藤戦隊は灯の消えたようでした。ローウィン攻撃に参加していなかった檜與平中尉は「戦隊長、残念ながら打つ手がありませですね」というと、加藤戦隊長は次のように答えました。


「檜、おれはかならず、きょうの恨みを晴らしてみせる。いいか、人間はいかなる困難にぶつかっても、投げてはいかんぞ。方法はきっとあるものだ」


それから加藤戦隊長は夜遅くまでえローウィン攻撃の作戦計画をたてはじめました。そして出た答えは夜間航法による払暁攻撃でした。650キロ先のローウィンまで2時間の夜間飛行が必要になります。月齢23日のわずかな月明かりの中、人家はなく山また山という650キロです。


「航法だに成功せば、敵を奇襲しうるの確信を有す」


加藤戦隊の安田義人曹長は加藤戦隊長のこの言葉を20年後も忘れることができない、と記しています。


 4月10日、加藤隼戦闘隊9機は夜間に出撃し、途中4機がエンジン不調で引き返し、残る5機が払暁にピタリとローウィン上空に到着しました。加藤戦隊長の航法はパーフェクトでした。ローウィン飛行場にはトマホークP-40が23機、カバーをかぶせたまま一列横隊に並んでいました。加藤戦隊は急降下し、ダ、ダ、ダ、ダッ、と一撃をかけ上昇。更に急降下し銃撃。これを数度繰り返し敵に損害を与えました。奇襲成功です。


 部隊はチェンマイ帰還後、直ぐ第二撃に飛び立ち、再びローウィンを攻撃します。加藤戦隊長、十八番のピストン攻撃でした。「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を叱咤激励しました。
 夕方、ローウィン上空で加藤戦隊とフライングタイガースの死闘が繰り広げられました。フライングタイガース2機を撃墜。加藤戦隊も後藤曹長と三砂曹長が戦死し、檜中尉が負傷するという激戦でした。


 加藤戦隊は4月26日にはビルマのマグウエ基地に前進し、28日にローウィンを攻撃。このとき平野伍長機は撃墜されますが、伍長は落下傘で脱出し、敵地から奇跡的に生還します。29日のラシオ攻略の陸軍落下傘部隊の護衛では安田曹長機が撃墜されるも胴体着陸し、これも敵地から奇跡的に生還しました。フライングタイガースは4月30日には昆明に退却し、7月3日には解散しました。(中国空軍起動部隊(CATF)に編入)




参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
参考サイト
 WikiPedia「フライング・タイガース」「加藤隼戦闘隊」
添付画像
 フライングタイガースに所属するP-40Cトマホーク(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


一式戦闘機 隼
www.youtube.com/watch?v=Pf1_7UbMdBA


PageTop

空の神兵と加藤隼戦闘隊

歴史を変えた空の神兵。


S43i



 昭和17年(1942年)2月6日、7日、8日、13日とパレンバン航空撃滅作戦が決行されました。スマトラ半島のパレンバンは東南アジア有数の大油田地帯で、資源のない日本にとって最重要攻略目標地でした。14日には落下傘降下作戦が予定されており、それに先立って敵の航空戦力を撃滅しておくのです。

 パレンバン落下傘降下作戦には陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊が護衛にあたることになっていました。加藤戦隊の檜與平中尉はマレーのカハンの宿舎の近くのゴム林の広場にたくさんの兵士が車座になっているのを見かけました。そこには黄色い袋の落下傘が高く積み上げられ、祭壇が設けられて数本の蝋燭が灯されていました。落下傘降下部隊「空の神兵」です。神兵たちは敬虔な祈りを捧げていました。檜中尉は足をとめて成功を祈り、頭を深く垂れました。そして行き過ぎようとすると走って追いかけてくる人たちがいます。檜中尉の同期の元田精一中尉と、飯塚英夫中尉、野崎幹雄中尉でした。みな落下傘部隊の操縦者です。

「おお、檜、パレンバンの敵さんはどうだい」


「パレンバンには、いるぞ、いるぞ。戦闘機が山ほどいるから、危ねえものだぞ」

「ほんとか。降りたらこっちのものだが、降りるまでは、なんともならん。降りるまでは頼むぞ」

「心配するな。うちの部隊がついているんだ。安心して、おフクロの夢でも見て寝ろよ、大船にのった気でなあ」「じゃあ、あしたな」

「うん、頼むぞ」

 14日、陸軍戸山学校で鍛えられた一騎当千の空の神兵降下部隊329名のうちの第1悌団は一〇〇式輸送機やロ式輸送機に乗り、パレンバンを目指しました。護衛は加藤隼戦闘隊と飛行第59戦隊です。
 パレンバンは視界が悪く目標がなかなか見えません。やっと雲の切れ間があり、高度を600メートルまで下げ、大編隊はパレンバンへは突進しました。いよいよ降下のというときは飛行速度は時速200キロ近くまで落とします。このとき敵機に攻撃されると大変です。高度300メートル。雲のため落下傘降下の最低高度となりました。まだ敵機は現れません。

「いまだ、はやく降りてくれ!」

 加藤隼戦闘隊員は祈るような気持ちで輸送機を見つめました。11時25分、歴史的瞬間!輸送機から黒いものがパラパラと無数に転がり出て、あっと思う間に純白の落下傘が間隔をおいてパッパッと開きました。気付いた敵の地上砲火が炸裂しはじめました。しかし、この時点では落下傘部隊の被害は皆無でした。加藤戦隊は来襲してくる敵ハリケーン戦闘機やスピットファイアと交戦し、12分の戦闘でこれらを撃墜しました。そして空の神兵が地上で集結しつつあるのを確認して戦場を離脱しました。

 2月15日朝、偵察機から報告が入りました。
「精油所は火煙のため確認できざるも、飛行場占領部隊は集結した部隊をもって飛行場を攻撃。その占領も時間の問題と考えられる」

 15日には第二次の降下部隊第2悌団がパレンバンに降下しました。この時点で既に飛行場は占領していました。空の神兵たちはパレンバン市街を占領しました。神兵はじつによく大任を果たし、加藤戦隊を喜ばせました。また、この占領によりシンガポールのイギリス軍の後方を遮断させることになり、15日9時50分、イギリス軍は白旗をあげて降伏しました。

 2月17日、加藤隼戦闘隊はパレンバン飛行場へ進みました。ゴム林の中にはどこもかしこも石油缶の山であり、"ガソリンの一滴血の一滴"のスローガンで節約してきた日本人にとっては驚きでした。辻々の立札には日本の落下傘部隊が降下してきた場合に、抵抗することを指示した絵入りのポスターが貼られていました。情報は洩れていたのです。しかし、シンガポール陥落より前に強行したことが「奇襲」となり成功となったのでした。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』
添付画像
 一式戦一型(キ43-I)(PD)

人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


空の神兵
http://www.youtube.com/watch?v=sZwRg-rNnzs


PageTop

隼、シンガポールへ ~ 加藤隼戦闘隊

同じカラーだった。



S_2




 昭和17年(1942年)1月12日、マレーのイボーに前進した陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊はシンガポール攻撃の命令を待っていました。敵に機先を制されることなく、夜間に出撃するのです。しかし、あと一時間もすれば明るくなるのに出撃命令が出ません。

「よし、いこう!」

 加藤建夫戦隊長は出撃を決断。離陸寸前に出撃中止命令がでますが、「ここで中止すれば混乱を来たし、大損害を出すおそれがある」として出撃を強行しました。出撃すると重爆隊がすでに出撃しており、加藤戦隊は重爆隊を護衛してシンガポールへ向かいましたシンガポールには百機余りの戦闘機があるはずでしたが、もぬけの空でした。続く13日の出撃もわずかにバッファロー戦闘機が5,6機出撃してきただけでした。加藤戦隊は連日のようにシンガポールへ出撃しました。

 1月20日、まだ夜が明けない頃、檜與平中尉は枕元で物音がしたので目を覚ますと八田中尉が口の周りを歯磨き粉で真っ白にして立っています。

檜 
「おい、どうしたんだ?」
八田
「おい、檜、起きろよ。歯ブラシが折れたんだよ。今日はおれの最期だよ」
檜 
「ばか、歯ブラシだって何かの拍子に折れるさ」

 この日、八田中尉は敵、スピットファイアの奇襲を受け戦死しました。

 1月31日、檜中尉は後藤力曹長と奥山長市曹長を連れて、第三中隊の竹内正吾中尉の指揮する1個編隊に従って出撃しました。爆撃隊の護衛です。爆撃隊は目標へ正確に爆撃し、ジョホール水道の上空を北上して帰路につきかけていました。そのとき敵ハリケーン戦闘機10数機の大編隊が襲ってきました。檜機らは反撃します。檜中尉は数機撃墜し、ふと下をみると後藤曹長機がいました。後藤機の後方から敵機が狙っていました。後藤機は気づいていません。

「後藤危ない!」

 檜機はまっさかさまに突っ込んで救援に向かいましたが、時すでに遅く、後藤機は一連射を浴び、機体から火を噴き、墜落していきました。

 後藤曹長は落下傘降下していました。そしてゴム林の中の小さな村落に降りました。ちょうどイギリス軍が、なだれのように敗走している真っ最中でした。見つかってはまずいので、後藤曹長は一目散にあてもなく走って落下傘の側を離れました。そして、村のはずれの一軒家の物置の中の草むらに身をひそめて外をうかがっていました。
 夕方になり、周囲が薄暗くなると敵の通過も少なくなります。すると、家の中から17,8歳のマレーの少女が出てきて、どうしてか後藤曹長がいることを知っており、「来い」「来い」と手招きしています。しばらくすると、お盆の上に握り飯を乗せて一間ぐらいまで近寄ってきてお盆をおいて、家の中に走り込んでいきました。

 夜になると、また少女が現れて、「来い来い」と招くので、後藤曹長は今度はついていきました。家の中には歳取った父親が何か細工物をしていましたが、少女と何か話すと家を出ていきました。「もしや敵に通報するのでは?」と思った後藤は家を出て行こうとしますが、少女が手を横に振って引き留めて放しません。そうしているうちに5,6人のマレー人の青年が家にやってきました。後藤曹長は拳銃を持って身構えました。ところがマレー人らはニッコリとしてみんな手を出してこういうのです。

「カラー」「カラー」

手の色も顔の色も同じだ。われわれは味方だというのです。後藤曹長は安心しました。後藤曹長はひどい火傷をおっていましたが、彼らは実に親切に看護してくれ、家の外では若者たちが鎌や棒を持って護衛してくれました。後藤曹長は感激し、傷ついた身体も心もふるわせて泣きました。

 やがて日本軍第五師団が進出してきて後藤曹長は野戦病院に収容されました。後藤曹長が生きているという報せをうけた檜中尉は野戦病院を訪ねました。後藤曹長は全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、目だけ出して横たわっていました。

「後藤曹長!」
「檜中尉殿!」

 後藤曹長の目から大粒の涙がとめどもなく流れました。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

文頭イラスト
 加藤建夫 武士道Tシャツ http://ameblo.jp/fumizo4989/entry-11298078332.html
 ホームページ http://www.ekakineco.com/index.html
 Tシャツあります  http://clubt.jp/product/219116.html


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

出撃、加藤隼戦闘隊

対米英開戦。隼が征く。


S



 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争対米英戦の火蓋がきっておとされました。陸軍飛行第六十四戦隊、通称、加藤隼戦闘隊は仏印フコク島で出撃の命令を待っていましたが、爆撃戦隊のいるプノンペン飛行場が豪雨で出撃は中止となりました。しかし、加藤建夫戦隊長は出撃を敢行します。目指すはマレーのスンゲイパタニ飛行場です。

「敵機発見!」

 初の実戦に檜與平中尉はゴクリと唾を飲み込みました。喉がからからに乾いていたのです。敵機はイギリスの中型爆撃機ブレニムでした。大泉製武中尉機がブレニムの後ろ上方から最初の攻撃を仕掛け、さらに高山隊長機が攻撃し、その後、檜中尉の隼が攻撃します。ブレニムは被弾しながらもなかなか落ちず、最後は八田米作中尉機が攻撃し、ブレニムは尾部がバラバラに分解して吹っ飛び、ペナン島対岸のアエルタワル飛行場の片隅へ、真っ逆さまに落ちていきました。加藤隼戦隊はこの日、スンゲイパタニ、アロルスター、アエルタワル、ペナンの敵飛行場を次々襲撃し、戦火をあげ、緒戦を飾りました。

 9日、ペナン島アエルタワル飛行場を攻撃、11日ケダー州を攻撃。寺内南方軍総司令官から感状が授与されました。13日にはクワンタンを攻撃し、コタバル基地へ前進しました。
 22日、加藤戦隊はクアラルンプール上空でバッファロー戦闘機の大編隊と激しい空中戦を展開します。600ないし700mの優位な高度をとった高山編隊が次々反転し、バッファローを攻撃し、片っ端から撃墜していきます。安間編隊は遁走するバッファローを撃墜します。おそらくは全機撃墜したであろうという理想的な大空中戦でした。

 12月23日、ビルマ方面で重爆隊がラングーンを攻撃しましたが、戦闘機の護衛が足らず、25日のラングーン攻撃に加藤戦隊が護衛につくことになりました。加藤戦隊はタイのドムアン飛行場に移動しました。飛行場に着くとタイの空軍兵士が群がってきて「ナカジマ、ナカジマ」(中島飛行機製作)と隼戦闘機を撫で回しました。

 25日、加藤隼戦闘隊はラングーンへ向けて出撃。爆撃隊はラングーンに爆弾を投下しました。その帰路のこと、敵戦闘機が爆撃隊を襲撃してきました。加藤戦隊の任務は爆撃隊の護衛ですから、敵機を深追いすることは禁物です。加藤戦隊長は敵機が襲ってくると威嚇射撃をし、敵を追っ払い、決して深追いせず、爆撃隊から離れることはありませんでした。しかし、敵機を攻撃したい気持ちで一杯の若い隊員たちは気が焦り、深追いしてしまいます。檜與平中尉はバッファロー戦闘機3機が攻撃してきたので、急旋回でやりすごし、追撃を開始してしまいました。敵機を撃墜したときには、爆撃隊は遠く機影が豆粒のように小さくみえるくらい離れてしまいました。案の定、二手にわかれていた爆撃隊の一隊は敵機の攻撃を受け、三機が撃墜され、一機が不時着という損害を受けてしまいました。

「貴様らは、それでも戦闘機乗りか!」


 基地にもどると、普段はやさしい加藤建夫戦隊長は烈火のごとく隊員たちを叱りつけました。檜與平中尉が遅くにひょっこり戻ってくると
「檜!今頃のこのこ帰ってくるとは何事だ!」と怒鳴りつけました。戦隊長は爆撃隊の隊長のもとへいき、「自分のいたらぬ指揮で援護ができず、大きな損害を出させ、何とも申し訳ありません」と謝罪しました。

 隊員はショボンとして、タイランドホテルに帰りました。皆無言です。食卓に着くと加藤戦隊長は
「本日は残念だった。さあ、みんな元気を出して、一杯やろう。ご苦労さん」と声をかけます。もう普段の加藤建夫にもどっていました。

「おい、檜、ここへ来い。うまいのをやろう

加藤戦隊長はザボン(果物の一種)を剥いて檜中尉へ渡しました。

 隊員たちはすっかり元気を取り戻し、
「明日もう一度、攻撃をやらして下さい」「お願いします」と戦隊長に熱心に頼み込みました。加藤戦隊長は「そのうち機会はまたあるさ。シンガポールも残っているじゃないか」と諭(さと)すように言いました。加藤戦隊は恨み深いラングーン攻撃をいったんあきらめて、タイを後にコタバル基地へ帰還しました。



参考文献
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 光人社NF文庫「つばさの血戦」檜與平(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.8『加藤隼戦闘隊』

文頭イラスト
 倉橋ちみも 仕事を探して3千里 http://ameblo.jp/fumizo4989/entry-11229712704.html
 yahoo版 http://blogs.yahoo.co.jp/fumizo4989/9192640.html
 ホームページ http://www.ekakineco.com/index.html
 Tシャツあります http://clubt.jp/product/208363.html


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

栄光、加藤隼戦闘隊

エンジンの音 ゴオーゴオーと 


S1942



 「加藤隼戦闘隊」というのを聞いたことがあるでしょうか。陸軍飛行第六十四戦隊のことで、前身である飛行第二大隊から数えると部隊の歴史は9年に及びます。昭和19年(1944年)には映画が公開されました。戦隊長の加藤健夫中佐(死後、少将)は第四代目の戦隊長になります。

 加藤建夫少佐が六十四戦隊の戦隊長として赴任したのは昭和15年(1940年)4月15日のことでした。このとき36歳。数ヶ月前に部隊歌が作られ、赴任当日、加藤戦隊長に披露されました。

 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機


 作詞は部隊の田中林平准尉、作曲は、南支派遣軍楽隊の岡野正幸氏、原田喜一氏、森屋五郎氏、編曲が寺岡真三氏です。歌詞の中に「隼が征く」とありますが、このころ部隊の主力戦闘機は97式戦闘機でした。後に一式戦闘機が採用され、「隼」と命名され、部隊歌と偶然にも一致しました。

 一式戦闘機キ43「隼」は昭和13年(1938年)12月12日に初飛行しましたが、当時の戦闘機パイロットたちの評判は悪く、97式戦闘機よりも大きく、重たいと考えられていました。しかし、列強の新型戦闘機より500キロも軽く、運動性能に優れていました。評判の悪かったキ43「隼」は一年放置されましたが、太平洋に風雲急を告げるようになると航続の長い戦闘機が要求され、キ43が急遽採用されました。加藤建夫戦隊長はキ43の採用に反対していましたが、採用となると文句を言いませんでした。

加藤
「いくら反対したってそれは研究段階でのことだよ。いったん決定したら、どのように使うかが勝負だ。なあに、この加藤が必ずモノにしてみせるから安心してくれ」

 加藤戦隊長は多忙な訓練の合間をぬって航空本部に飛んでは改良の打ち合わせをしたり、睡眠時間を削って自ら機体の特性や限界を試したりしました。

 航空戦隊の戦隊長というと鬼のような厳しい軍人を思い浮かべますが、加藤戦隊長は実に部下思いで優しい人でした。戦隊の檜與平少尉が週番士官勤務についていると加藤戦隊長がやってきて
「今夜はおれも泊まるよ」と兵営の視察にきました。やがて消灯となったので、檜少尉は風呂へ行くと湯が汚れて悪臭を放っています。湯気の奥から「檜、こっちへ来いよ」と声がするので見るとなんと戦隊長がいました。

加藤
「こんなにひどい状態だとは思わなかった。早く改修しよう」

 翌日には大工を呼んで改修させたといいます。また、加藤戦隊長は夜半過ぎてから何度も兵舎を見て回り、兵隊たちの手や足が蚊帳の外へ出ているのを、いちいち蚊帳の中へいれていました。それは慈父さながらであったといいます。
 加藤戦隊長はコーヒーが好きで、単独飛行で出かけるたびにどこからか仕入れきました。そして、食後に
「おい、みんな、コーヒー飲まんか?」といってコーヒーを挽いて部下にふるまいました。加藤戦隊長がいれてくれるコーヒーは美味しく、部下たちはご馳走になるのを楽しみにしていたといいます。

 昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英に宣戦布告。加藤隼戦闘隊はマレー作戦に参加しました。これより加藤隼戦闘隊は激戦の歴史を刻むことになります。マレー、シンガポール、、パレンバン、ジャワ、ビルマ、遠くはインドのインパール、カルカッタまで隼は征きました。加藤部隊は一旦出撃して一撃を与え、帰還すると直ぐ出撃して再攻撃するピストン攻撃を行うという厳しい戦闘行動を行うことしばしばで、加藤戦隊長は「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を激励したといいます。戦隊の安田曹長は
「体力の限界をはるかに超すもので、ただ気力で支えられていた」と40歳(数え)の加藤戦隊長の馬力には恐れ入ったと述べています。

 「戦果」撃墜258 不確実25 炎上49 大破95
 「損害」戦死122

 加藤戦隊長は昭和17年(1942年)5月22日ビルマ・アキャブの戦闘で敵機ブレンハイムを撃墜しましたが、自身の機も被弾し、翼が炎にまみれ、50~60メートルの高度で海中へ反転し、自爆しました。これは部下に普段から話していた「確実に死ねる」方法でした。(捕虜にならないようにする) 加藤戦隊長の戦死には南方軍司令官・寺内寿一より感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 そして昭和19年(1944年)には加藤隼戦闘隊の活躍は映画化され、同戦隊の隊歌と相まって当時の全国民の知る伝説的英雄となりました。



参考文献
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 「歴史通」2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 光人社「隼戦闘隊長 加藤建夫」檜與平(著)
 歴史街道2011.8「加藤隼戦闘隊」
参考サイト
 WikiPedia「加藤隼戦闘隊」「加藤健夫」

添付画像
 昭和17年(1942年)初旬(戦死の数ヶ月前)の加藤建夫戦隊長(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。



加藤隼戦闘隊 -Kato Hayabusa Fighter Wing-
http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w


PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。