かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

東條英機暗殺計画

東條英機暗殺計画があった。


S18_october_1941


 昭和19年(1944年)5月、大東亜戦争の戦局が悪化してくると東條内閣にかげりが見えてきます。岸信介国務相(軍需次官 戦後、内閣総理大臣)は東條英機に対し「軍需産業に責任を持っている次官の立場から言うと、サイパンが取られればどうにもなりません。B-29が連日空襲をかけてくれば、大都市の軍需産業は壊滅してしまうという、現実の問題ですから」と述べます。岸は東條内閣を見限っていました。


 海軍では東條英機暗殺計画が持ち上がります。倒閣へ向けた正攻法を用いなかったのは、嶋田海軍相が東條英機と懇意であるのと、東條英機の憲兵を使った強引な手法、戦局悪化のあせりと思われます。高木惣吉海軍少将、神重徳大佐、三上卓元海軍中尉らが暗殺計画を練り、7月14日を決行の日とします。ところが、神重徳大佐が連合艦隊参謀として転出することになり、さらに7月7日にサイパンが陥落。東條内閣更迭が現実味を帯びてきたため、計画を中止することになりました。


 陸軍内でも暗殺計画がありました。大本営参謀の津野田知重少佐が中心となって暗殺計画をたて、決行日は7月25日となっていました。東條英機が乗ったオープンカーを襲撃して手榴弾を投げる予定でした。計画は山形に隠遁していた石原莞爾に持ち込まれ、献策書を読んだ石原は「総理にする人間を誤らないことだね」と答え、献策書の表紙に「全然同意す」と記しました。さらに計画は大本営参謀の三笠宮に持ち込まれ賛同を得ました。秩父宮にも持ち込まれ「後継者は小畑敏四郎(陸軍中将)がいいだろう」と賛同しました。しかし、陸軍は東條英機の守備範囲内だったため情報は漏れ、計画者は逮捕されました。


 このほか陸軍の参謀本部戦争指導班の松谷班長は正攻法で東條英機に直接進言しています。


「7月1日 午後より市谷分室において班長以下昭和20年春季頃を目処とする戦争指導に関する第一案を研究す。今後逐次『ジリ』貧に陥るべきを以って、速やかに戦争終結を企図するの結論に意見一致せり」(戦争指導班の日誌)


 しかし、松谷班長は、すぐ前線へ飛ばされます。陸軍省の戦備課の主任だった塚本大佐も東條英機に面会を求め終戦を説得したため突然グアムに飛ばされ、戦死してしまいます。


 この状況に重臣らは危機感を募らせ、近衛、岡田、若槻、米内、阿倍、広田が平沼邸に集まり、東條不信任の結論を出し、東條英機に伝えます。岸信介の離反とこの重臣会議の結論により、東條英機は7月18日総辞職を奉上し、東條内閣は瓦解しました。


 東條英機は親しい人には本音を漏らしていましたが、昭和18年頃にこんなことを言っています。
「戦というものはね、山の上から大石を転がすようなものだ。最初の50センチかせいぜい一メートルぐらい転がったときなら、数人の力でとめることもできるが、二メートルさらに五メートルとなれば、もう何十人か何百人かで止めなければとめることは出来ない。それ以上になれば結局谷底まで、行き着くところまで行かねば始末はつかないんだよ」


 この後、小磯内閣が誕生し、講和論が台頭してきますが、レイテ決戦で大失敗し、時期がつかめず、東條英機の言葉どおり、坂道を転がることを止めることは容易ではありませんでした。後に鈴木貫太郎、阿南惟幾による策略によって大きな力を引き出し、谷底寸前で止めることになります。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)


添付画像
 東條内閣 昭和16年10月18日(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

学徒出陣

様々な思いを胸に。


19431021


 大東亜戦争最中の昭和18年(1943年)10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布しました。それまでは兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されており、次第に徴兵猶予の対象は狭くされ、ついには理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃することとなりました。戦場に行くことはないと思っていた学生たちの気持ちは複雑なものがありました。


丸山昴(兵科四期・対潜・東大・防衛事務次官)
「戦局がこんなに切迫しているのに、俺たちだけ大学の中で特権に甘えていていいのだろうか」


香田一郎(兵科四期・対空・東京トヨタ自販)
「いずれ当然来るべきものが来たまでだ」


宮井仁之助(飛行要務十四期・東大・日本生産性本部理事長)
「軍国主義もここまで来たか」


吉田満(兵科四期・電測・東大・日銀幹事)
「今この祖国が騒然としている中で、大学で勉強していても前途に何があるか。学問をやりたかったら舞台が転換してからでも遅くはない。参戦は決して学生の本分ではないが、来るべきものは迎えよう」


藤森耕介(兵科四期・対空・湖北工業常務)
「若干二十二歳、国家も俺とともに終焉が近いのか」


 “俺たちが始めた戦争ではない”などさまざまな思いから批判する学生も多かったといいます。しかし、運命を受けいれるほかはありませんでした。「戦争が始まった以上、選択の余地はない、時代の運命だな」(上記 宮井仁之助)


 昭和18年10月21日、東京神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開かれました。朝から雨がシトシト降っていました。


東條英機の演説一部
「茲(ここ)に明治神宮外苑の声域におきまして、征途に上がらんとする学徒諸君の装容に接し、所懐(しょかい)を申し述ぶる機会を得ましたることは私の最も欣幸(きんこう)とする所であります。(中略) 諸君は胸中深く決する所あり、腕をして国難に赴く烈々たる気迫、将に勇敢なるものがあることを、私はその諸君の輝く眸(ひとみ)に十分これをお察しし得るのであります・・・」


  この東條首相の演説を聞いた学生の感想。
「忠君愛国を叩き込む話で、またかという感じだった。毎度同じ事を聞かされてうんざりですね」
「国の考え方が正しいという前提に立っていますから、頼むよという首相の言葉に対し、死を持って報いようと思いましたね」
「『生還を期せず』をことさら高く読み上げたのは、個人としては違和感がありました。戦争だから死ぬことはあるが、だからといって、死ぬことにこだわるのはおかしいと思いましたね」


 案外、学生は冷静に捉えています。戦前は真っ暗な時代であり、若者はみな教育を通して忠君愛国ガチガチに洗脳されていたというイメージからは程遠いです。イメージは戦後創られたものでしょう。


 壮行式の一般スタンドでは女学生たちがいっせいに紺の上衣を脱ぎ、白いブラウス姿に変わり、無限の連帯と哀惜の意思表示を行います。雨の中、誰一人傘をさす生徒はいませんでした。最後の隊列がゲートを出ようとするときスタンドの人波は崩れ、女学生が出口にどっとなだれを打って駆け寄ってきました。これは当時は不謹慎なことでしたが、「一期一会」、これで終わりだと思ったゆえのタブー破りでした。
 スタンドの女学生の中には東條英機の三女、幸枝さんがいました。幸枝さんは家では見せたことのない、大きな苦悩を抱えた父の姿を見て、涙が流れてしかたなかった、やむにやまれず学徒出陣という手段をとったものの父も悲しかったに違いないと思いながら、直立不動で父、東條英機を見つめていたといいます。



参考文献
 角川学芸出版「東條英機」太田尚樹(著)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
参考サイト
  WikiPedia「学徒出陣」


添付画像
 出陣学徒壮行会(1943年10月21日)(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。




学徒出陣 昭和18年 1943年
http://www.youtube.com/watch?v=rohZy17TL_I


PageTop

世界に衝撃を与えたマレー攻略、シンガポール陥落

白人植民地主義の長い歴史の終焉。



S_4




 昭和16年(1941年)12月8日、日英開戦。にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。この快進撃を支えたのは現地のマレーの人たちです。


「星港攻略記」筑紫二郎(著) 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封より) 日本軍が占領した飛行場の修理の場面
「私達にはいつも味方があった。それは住民である。ジョホール・バールからやってきた避難民の住民たちがわれ先と集まってきて手伝ってくれた。彼らは一様に『早くシンガポールを陥してくれ』という。人力もなかなか馬鹿にならない。二日経つと何とか飛行機が降りられるようになった」


 マレーのラーマン王子は自らマイクの前に立ち、「マレー人よ、日本軍に協力せよ!」とラジオ放送を行っていました。


「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
「私がマレー人を見る目は、いつか同胞にたいするような親しさを覚えるのだった。
 彼らも進撃する戦車の上に、バナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを投げて声援していた。現地に来てから、単なる掛け声でなく、これらマレー人のためにも、イギリス人をこの土地から一日も早く追放しなければと考えたのだった」


  日本軍は住民の支援を受けながら快進撃しましたが、ゲマスという山岳地ではオーストラリア部隊と一週間の激戦を行っています。


 現代シンガポールの社会経済史(シンガポール中学校の教科書1985年版)
「オーストラリアの兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証として、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵二百人の大規模な墓の上に一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には、『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉がかかれていた」


 昭和17年(1942年)2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入、15日には日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍は降伏しました。


  この難攻不落の要塞といわれたシンガポール陥落はイギリス軍史上最大規模の降伏であり、世界に衝撃を与えました。


 フランス ド・ゴール将軍2/15の日記
「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」


 アメリカ歴史学者 ヘレン・ミアズ
「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 - (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った - の戦であることが判明したのである」


 マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです」


 マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏
「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした」


 マレーではイギリスにくっついて商売していた華僑は日本軍が来るのを喜ばなかったため、ゲリラとして日本軍に抵抗しています。「マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した」という反日プロパガンダもあります。戦後、日本人がマレーに調べにきたことがあり、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ」などと情けないことを言っていたといいます。これを聞いた元上院議員のラジャー・ダト・ノンチックは驚き「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と答えました。ノンチック氏は「日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした」と述べています。


 マレーシア元外務大臣 タンスリー・ガザリー・シャフィー元外務大臣
「日本の政治家の冒頭の挨拶は、ハンで押したように決まって次のような、『過ぐる大戦において我が国は貴国に対してたいへんご迷惑をおかけし申しわけありません』というお詫びです。
 私は、そのたびに、なぜそのような挨拶をなさるのですか。あの戦争で日本は立派なことをなさったではないですか。日本軍がイギリス軍を追い払ってくださったからこそ我々は独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシアも、インドネシアも、シンガポールも、その他インドを含めた東南アジア諸国の独立は考えられません」


 シンガポール陥落は日本軍とマレー人が協同して成し遂げたことであり、世界に衝撃を与え、白人による植民地支配の歴史を終わらせたのが歴史の真実です。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 日本教育新聞社「日本人よ ありがとう」土生良樹(著)
参考サイト
  教科書が教えない歴史
      アジアにおける日本と大東亜戦争 マレーシア編 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_3.html
  WikiPedia「マレー作戦」

添付画像
  クアラルンプールに突入する日本軍部隊(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。。



敵軍遂に白旗揚ぐ
http://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI


PageTop

歴史を変えたマレー沖海戦

有色人種でもやればできるという自信を与えた。


S_2


 昭和16年(1941年)12月8日、日英開戦。日本軍はマレー半島のコタバルに上陸します。マレー半島はイギリスの植民地でした。9日、最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を旗艦とするイギリス東洋艦隊主力Z部隊は日本船団を攻撃するため出撃します。日本軍の伊号第六十五潜水艦がZ部隊を発見。日本第一航空部隊が索敵に出動しましたが、この日は天候が悪く補足できませんでした。


 10日、朝から再び第一航空部隊が索敵攻撃に出撃します。11時13分、元山空が駆逐艦「テネドス」を発見。ついで「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を発見します。美幌空の96式陸攻8機、元山空の96式陸攻16機、鹿島空の最新鋭機一式陸攻26機が爆撃、雷撃を加えました。


-「空の少年兵戦記」(昭和18年10月 GHQ焚書図書開封3より)-----
 敵は真下だ。艦橋や甲板の上から、見張り員が眼鏡で上を見ている。我が機が爆弾を投下したと見れば、大急ぎで変針して避けようというのだ。
「用意、打テッ!」
 指揮官機から命令が来た。窓から見ていると、爆弾は黒い尾を引いて刻々に小さくなりながら、敵艦に吸いつけられていく。敵艦はジグザグに蛇行しながら逃げ回る。
 弾着を見届けなければならない。敵の戦闘機、そんなものはお構いなしだ。俺は窓に頭を突っ込んむようにして覗いていると黒い煙が上がった。艦尾の左舷に命中したのだ。
    (中略)
 俺たちが第二撃目に移った頃は、すでに味方の雷撃隊が肉迫していて、敵は気息奄奄(きそくえんえん)と言った形だった俺たちが帰途についた時だ。レパルスだか、ウエルズだかわからなかったが、戦艦が一隻、我が雷撃隊の挟撃を受けていた。雷撃隊は右から左から左から右から、入れ代わり立ち代り攻撃していた。
    (中略)
 魚雷は白い航跡を描いて追いかけている。中(あた)るか?中ってくれ!ひやひやしながら見詰めていると、水煙があがった。黒煙もあがった。一緒だったかもしれぬ。はっきりと命中するのが見えたのだ。思わず喝采を叫んだよ。

----------


 レスパルスは午後2時20分轟沈。プリンス・オブ・ウェールズは午後2時40分に轟沈しました。これまで「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない」というのが常識でしたが、それを覆し、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に影響をあたえました。戦略的なものだけでなく精神的な面でも世界に大きな衝撃を与えています。


 イギリス首相チャーチル
「12月10日、私の部屋で電話が鳴った。それは軍令部長であった。彼の声は変だった。咳をしているようでもあり、こみあげてくるものをこらえているようでもあり、はじめは明瞭に聞き取れなかった。『総理、プリンス・オブ・ウエールズとレパルスが、両方とも日本軍に沈められたことを報告しなければなりません・フィリップス(極東艦隊司令長官)は水死しました』『その通りかね』『全く疑う余地はありません』私は受話器を置いた。私はひとりきりであることが幸だった。戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」


 インドの元大統領であるラグ・クリシュナン 昭和44年(1969年)時
「(イギリスの植民地であった)インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは、想像もできなかった。それを、我々と同じ東洋人である日本が見事にも撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって、東洋人でもやれるという気持ちが起きた


 イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビー 毎日新聞 昭和43年(1958年)3月22日付
「英国最新最良の戦艦二隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである」


 プリンス・オブ・ウェールズの撃沈は白人にとっては悲痛な出来事でしたが、アジアのマレー人、タイ人、インドネシア人、インド人は飛び上がって喜び、白人は絶対ではない、有色人種でもやればできる、という自信を与えたのでした。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  学研「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
  展転社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
参考サイト
  WikiPedia「マレー沖海戦」
添付画像
  日本軍機の猛攻撃を受け轟沈するプリンス・オブ・ウェールズとレパルス(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。



マレー沖海戦「攻撃」 Sinking of Prince of Wales and Repulse 3/3 - Attack
http://www.youtube.com/watch?v=vE6_s1Tg0Ps


PageTop

ミッドウェー敗北を知らなかった東條英機

本当に反省すべきことは何か。


S


 大東亜戦争時、東條内閣の農相だった井野碩哉(いのひろや)氏は戦後、A級戦犯容疑で大森の収容所に入れられました。そこに東條英機がおり、そのとき東條と会話したことを、後に民法のテレビで語っています。


「東條さんが一切の戦況を把握していたものとばっかり思っておりました。ところが、戦後、大森の収容所に一緒にいた東條さんから『井野君、自分はミッドウェーの敗北を知らなかったんだよ』と言われたときはびっくりしました。総理大臣がミッドウェーの敗北を知らなくて、戦争に勝てるはずがないじゃないか、という気持ちになりました」


井野氏は「そんなこと信じられませんよ」と重ねて確かめたところ、


「私がもしミッドウェーの敗北を知っておったらインパール作戦はやらなかった」


と答えたといいます。ミッドウェー海戦は昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー島をめぐって日米激突した海戦で、日本海軍は空母4隻を失うという大敗を喫しました。この事件を総理が知らなかったというのですから誰でも驚く話でしょう。全く知らなかったというより、作戦中止ぐらいは知っていたでしょうが、海戦によってどれくらいの損害が生じたか知らなかったということだと思います。いかに内閣と統帥がわかれていたかが良くわかる話です。「統帥」、つまり「軍」は内閣から独立していたのです。真珠湾攻撃について東條英機は「陸軍大臣としてその概要は聞いていた」と証言していますが、他の閣僚は事前に何も知らなかったのです。もし、東條英機が陸軍大臣を兼務していなければ結果が出るまで知らなかったかもしれません。


 支那事変より大本営が設置されましたが、総理は加われず、連絡機関(大本営政府連絡会議)が設置されました。しかし、陸軍大将、陸相を兼ねた総理にミッドウェーが伝わっていないのですから、大本営自体が陸海バラバラで連絡会議は機能していなかったと思われます。。


 東條英機は昭和19年(1944年)、戦局の悪化にともない参謀総長を兼任するといいだし、首相、陸相、内相、参謀総長、軍需相を兼任します。これを独裁者とする評価もありますが、東條英機は「一国の運命を預かるべき総理大臣が、軍の統制に関与する権限の無いような国柄で、戦争に勝てるわけがない」と言っています。これは正論でしょう。ただ、東條英機は官僚的な人であり、政治に不向きであったのと、憲兵を使った強引なやり方をしており周囲からの協力が得にくかったといえます。東條英機の主張を効果あるものにするには日露戦争のときの児玉源太郎のような人でないと成し得ないでしょう。


 東條英機は東京裁判のときの尋問で統帥権について尋ねられたとき、「統帥権の独立は戦闘だけを考えていればよい、という場合に限りよい物である。しかし、今日、戦争も政治の一部になっている現代の状況では、政治的に見て、統帥権の独立は一考を要する」と述べています。(裁判では強調したくないということを添えている) また、教誨師(きょうかいし)の花山信勝(はなやま しんしょう)師経由で残した遺言にも統帥権について述べており「統帥権独立の思想は間違っている。あれでは陸海軍一本の行動がとれない」と統帥権に苦しんだことを物語っています。


 戦後、日本は侵略国家で共同謀議の戦争犯罪があり、東條英機は独裁者だった、あの戦争は最初から無謀だったなどというデマが撒き散らされましたが、統帥が独立していて共同謀議が成り立つわけがなく、独裁者がミッドウェーの敗北を知らないはずがありません。あの戦争を反省するといってもデタラメの歴史を反省しても何の意味もなく、こうした統帥の問題や外交、戦略的国防などの観点で点検し、反省しなければ意味がないでしょう。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 朱鳥者「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 中公文庫「秘録・東京裁判」清瀬一郎(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
参考サイト
  WikiPedia「井野碩哉」「大本営」「大本営政府連絡会議」


添付画像
  ミッドウェー海戦で爆撃される蒼龍(そうりゅう)(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。