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南京の便衣兵

便衣兵は民間人と区別がつきにくかった。


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 昭和12年(1937年)8月に支那軍が日本海軍陸戦隊を攻撃して始まった第二次上海事変で、日本軍第三師団が上海に上陸しようとしたとき、桟橋の上に、日本の愛国婦人会のような多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えました。兵士は安心して次々に桟橋に降り立ちましたが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちに消え、支那軍による凄まじい一斉射撃を受けたといいます。


 支那軍というのはこういう軍隊なのです。


 福島民法 箭内正五郎記者(上海戦)
「上海で昼にお金を使って働かせていた捕虜が夜になると謀反を起し、営舎に手榴弾を投げたり火をつけたりしたことがありました。その時、火事になり私もマントが燃えたことがありました。また、便衣兵が手榴弾を投げたのを見つけて殺しています。ですから市民の服を着て死んでいる者もいました」


 同盟通信 細波孝無電技師(南京戦)
「私は国際法で捕虜をやってはいかんというのが念頭にありました。それを見て(下関の死体を捕虜の処断だと推測していた)国際法を考えましたが、戦闘の犠牲者だと思いました。入城式までに城内の大掃除をやりましたからね。中国兵というのは捕虜というのか敗残兵というのか、そういうのがいて、いつ攻撃してくるかわかりませんからね」


 支那兵は捕虜になっても隙をみせたら襲ってくるのです。これはこのときの上海戦だけの話ではなく、昔から支那兵というのは卑怯者だったということです。第一次上海事変のときも捕虜を検査したらピストルを隠しもっており、第二次上海事変でも同様に苦労したのです。南京事件を考察するときはこういう支那軍の特性を頭に入れておく必要があります。


 新愛知新聞 南正義記者(南京戦)
「12月13日ですか、先頭の部隊とともに中山門(南京の城門のひとつ)から城内に入り、中山東路を進むと、街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました。
 あとでわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、そこで捕まった日本兵らしいのです。それを中山東路につれてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。下から火であぶっていました」


 南方の門付近でも木に縛られて銃殺された日本兵が目撃されています。南京戦で日本軍が支那の敗残兵を処刑したことに対して国際法違反だという人がいますが、もしそうだとして、支那軍に捕らえられた日本兵が処刑されたことも批難しているでしょうか。支那軍は国際法など一切守りません。


 12月13日、南京が陥落後、支那兵は平服に着替え便衣兵となり、一般市民が避難している安全区に逃げ込みました。安全区はドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が管理し、中立非武装の地帯です。ところがこともあろうにジョン・ラーベ自身が支那の高級将校を匿ったのです。


 ラーベ日記12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」


 便衣兵は日本兵の仕業に見せかけ、殺人、略奪、強姦、放火などの悪事を繰り広げ、攪乱工作を行いました。


 飯沼守少将 1月4日陣中日記
「憲兵は南京難民区域或は外国大使館等に潜伏しある不逞徒を捕えつつあり、保安隊長、八十八師副長等、主なる者なり」


 チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
 馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」


南京で報告されてた日本兵の非行というのはほとんど便衣兵か民間の不逞支那人らの仕業でしょう。そして12月25日に日本軍将校宿舎が便衣兵の集団に襲われるということがおきています。とにかく日本軍は便衣兵には手を焼きました。便衣兵は国際法違反です。



参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 PHP「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」水間政憲(著)
添付画像
 日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日)(PD)


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南京虐殺ニセ写真
「杭に縛り付けた支那人めがけて銃剣術練習の日本兵」としてアメリカに出回ったもので、当時でも虚偽写真であることが明らかになったが、「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」などに使われだした。
当時の日本の軍服は詰め襟。折り襟ではない。また階級を表す肩章がついていない。


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南京大虐殺の大いなる疑問

疑問に答えられないのは大嘘だから。


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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
公開質問状に答えられない中共 ・ 南京事件?嘘です!(4) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11373047544.html


 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺があったとされますが、多くの学者が疑問を述べています。素人が見てもそのようなことがあったとは考えられないのですが、中華人民共和国(中共)は30万の虐殺を主張しています。最近では40万という数字さえ聞かれます。


 こうした疑問について「南京事件の真実を検証する会」 http://www20.tok2.com/home/nanking/ が温家宝国務総理へ公開質問状を出しています。簡単に書くと以下の内容になります。


一、故毛沢東党主席は生涯に一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした
二、1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行ったが、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていない
三、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、ありえない
四、「Documents of the Nanking Safety Zone」には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです
五、 南京虐殺の「証拠」であるとする写真はその後の科学的な研究によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しない
六、貴国のさまざまな機関が「南京虐殺映画」製作を企画し進めていると伝えられます。こうしたことは日中友好を願うわれわれ日本人にとって耐え難い裏切り行為


 支那事変、第二次世界大戦を通じて、支那共産党も国民党も南京大虐殺について何も言及していません。共産党の軍事雑誌の南京戦について述べたところには「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京・・・」と南京戦の様子と陥落は政治上、軍事上の重要性を述べているだけです。


 国民党には中央宣伝部というのがあり、ここが外国人を使って宣伝してもらおうとしていました。国民党の息がかかった金陵大学のベイツ教授はニューヨーク・タイムズとシカゴ・デイリー・ニューズの記者に南京戦における日本軍の蛮行を伝えるメモを渡し、それが記事になりました。英国の新聞記者ティンパーリに「戦争とは何か」というプロパガンダ本を書かせて世界各国で出版しました。ここまではよくできていたのですが、漢口での記者会見では何も述べていません。中央宣伝部は何か事があると緊急記者会見を開き、深夜であっても電話で記者らを呼び出していました。しかし、南京大虐殺については何も言っていないのです。国民党が外交ルートを使って日本へ抗議するということもありませんでした。わずかに国際連盟で2万人の虐殺と訴えたぐらいですが、各国に無視されました。プロパガンダも一貫性がないとどこかに矛盾が生じるということです。


 南京大虐殺の話は東京裁判になって急にでてきたものでした。罪状をでっちあげたのです。ところが、南京で証言を集めようにも日本軍の残虐行為を申告するものが「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査をすると唖然とするもの、虐殺を否定するまでいました。そして苦労して無理やり証拠もでっち上げたわけです。しかも避難民を管理していた国際委員会のメンバーが目撃した殺人はわずか1件で、それも警備中の日本兵が街路をあるく支那人を呼び止めたところ、逃げ出したので後ろから撃ったというものです。戦地においては正当なケースです。


 日本敗戦の昭和20年(1945年)12月13日は南京事件の9周年にあたりますが、わずか数件だけが死者に供物を捧げ、故人を追慕し、また戦禍に生き延びた自分の僥倖(ぎょうこう)を願い、涙を流して当時の悲惨なできごとを語る人は殆んど居ない状態であった」と上海のメディア「大公報」は不思議がって「蒋介石集団(国民党)は、日寇の罪状を調査した時、50万という見積もり数字を提出したではないか。それが『わずか数軒』の供養とはどうしたことか」と報じました。南京大虐殺などでっち上げであることは誰の目にも明らかで、毛沢東も国民党を嘲笑っていたことでしょう。


マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
公開質問状に答えられない中共 ・ 南京事件?嘘です!(4) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11373047544.html




参考文献
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 明成社「再審 南京大虐殺」竹本忠雄・大原康男(共著)


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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


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支那軍の蛮行に慄然とした日本軍

蛮行は支那軍のほうだった!


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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
蛮行は支那軍・南京事件?嘘です?(3) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11372282025.html


 昭和12年(1937年)12月の南京戦で日本軍が蛮行を働いたとされていますが、蛮行を働いたのは支那軍でした。支那軍は上海から南京へ向かう撤退戦で住民から掠奪し、虐殺していったのです。


 蒋介石日記11月30日の月間総括
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪城と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略) 敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」


 大阪毎日の記者・松村益二という人の「一等兵戦死」(昭和13年10月)という召集で戦地にいった記録、随筆に支那事変のときの支那軍の残虐さが書かれており、「GHQ焚書図書開封3」で紹介されています。


「僕の目にやきついている残虐の場面は記しておかなければならない。具体的には描写することは許されないだろう。簡単に書こう」
「我々は常に第一線にあって進撃した。そして残虐の場面をみた。支那兵はわれとわが同胞をたたきのめすのです」
「僕たちは敵を撃退せしめた。彼等の部隊の宿舎になっていた民家を掃蕩したとき、家の中に支那の婦人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼らはどうして自分のきょうだいを虐殺しなければならないのか。僕たちには解くことのできない謎である。
 家の中は掠奪の嵐に足の踏み場も無い。
 支那の農民が殺されている。素裸に引き剥かれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ」
「小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけているのに泣いて抵抗した故なのであろう」
「おれたちの子供がこんな目にあわされたら・・・」


 こうした中には父母が支那兵に殺されたり、逃亡したため、行き先の無い子供もおり、日本兵士はついつい子供と遊んでしまい、情が移り、前進命令が出て別れのときに涙してしまっています。


 支那軍というのはほとんど匪賊なのです。銃剣は食券がわりであり、民間人を襲うのです。南京戦のときに住民は難民区という中立地帯に保護されていましたが、これは戦闘からの避難のほか、支那軍が匪賊になって襲うから避難していたのです。


福岡日々新聞・三苫記者の記事(南京で黄という男性と陳という女性にインタビュー)
記者:君の郷里は南京からそう遠くないじゃないか。なぜ避難しなかったのか。
黄 :それは途中に土匪が多いからです。中央軍(蒋介石の軍)もたくさんいます。
記者:中央軍がいた方が土匪が来なくて都合がよくはないか。
黄 :いいえ中央軍も土匪も同じです。金や品物を持っていれば、殺したり、強奪したりするのです。
陳 :それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。


 支那軍は撤退のとき焦土作戦といって日本軍に施設を使わせないよう、食料の調達ができないように村々を焼き払い、南京城外15マイルの地点まで焼き払いました。


 ニューヨーク・タイムズ 上海12月22日発 F・ティルマン・ダーディン報告
「日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったこととなった・・・中国の『ウエスト・ポイント』である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから15マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである」


 金陵女史文理学院ミニー・ヴォートリン日記 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ」


 そして日本軍がいよいよ南京に到達すると支那軍の大将は兵士、住民をおいてトンズラしました。そして支那軍は暴徒と化したのです。


 前出・ダーディン報告
「土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店略奪も珍しくなかった」
「(12日)夕方には、退却の中国軍は暴徒と化した。中国軍は完全に瓦解した。指揮官もなく、どうなっているのかさっぱり分からなかった中国軍は、戦闘が終わって、生き延びなければならないことだけは分かった」


 東京日日新聞 南京にとどまった某外国人の日誌抜粋 12月20日報道
「12日、城外の支那軍総崩れとなり、八十七師、八十八師、教導総隊は、学生抗日軍を残して市内になだれ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する三十六師に命じ、これら敗残兵を片っぱしから銃殺するも、大勢如何ともする能わず、唐生智もまた憲兵と共に夜八時ころ何処ともなく落ちのぶ。敗残兵の放火、略奪なさざるはなく、恐怖に陥る・・・」


 米南京副領事エスピー氏の本国報告
「・・・支那兵自身、日本軍入城前に略奪を行いおれることとなり。・・・支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎとるための殺人も行いしなるべし」


 上海、南京で日本軍の蛮行など虚構であり、もし南京大虐殺というのがあったとしたら、それは支那軍の仕業に他なりません。


マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
蛮行は支那軍・南京事件?嘘です?(3) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11372282025.html


参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 大月書店「南京事件の日々」ミニー ヴォートリン (著) / 岡田 良之助・伊原 陽子 (訳), 笠原 十九司(解説)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)


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南京市民の虐殺などしていないと証言する元日本兵の方々
http://www.youtube.com/watch?v=tU7NYLtqwe0


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南京大虐殺の証拠写真は大ウソだった

証拠として通用する写真は一枚もなかった。


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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 証拠として通用する写真は一枚もない ・ 南京事件?嘘です?(2) 
 http://ameblo.jp/lander1208/entry-11367191293.html


 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺が行われたといわれています。これは学校の教科書にも記載されており、多くの人が知っていることでしょう。

 もう一度読む山川 日本史(高校教科書用)
「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。このとき日本軍は、非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺傷して、国際的に大きな非難をうけた(南京事件)」

 中華人民共和国(中共)が主張しているのは30万人虐殺です。それだけの虐殺があればその証拠写真があってもよいはずです。当時、南京には日本の新聞記者、カメラマンが100人以上いましたし、外国の新聞記者、カメラマンも5人いました。「シカゴ・デイリー・ニューズ」のスティール記者、「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者、「パラマウント・ニュース映画」のメンケンカメラマン、「ロイター通信」のスミス記者、「AP通信」のマクダニエル記者です。しかし、証拠として通用する写真は一枚もありませんでした。このことは亜細亜大学教授の東中野修道氏が南京虐殺の証拠写真としてあげられている143枚の写真を検証し、「南京事件『証拠写真』を検証する」という本にまとめています。いくつかあげてみます。

 キャプション「左手に切り落とした中国民衆の首を持ち、右手に軍刀を持つ凶悪な日本兵」


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これは英国マンチェスター・ガーディアンのティンパーリ記者の「外国人の見た日本軍の暴行(戦争とはなにか)」にも登場しています。水兵の襟が白ですが、日本軍の水兵は白線です。ちなみにティンパーリ記者は国民党中央宣伝部顧問です。ようするにプロパガンダをまき散らしたわけです。


 次の写真もティンパーリのプロパガンダ本に掲載されています。キャプションは「南京大虐殺の際、日本軍に殺害された中国民衆」となっています。


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 兵士の襟が折り襟になっているのがわかるでしょう。当時の日本陸軍の襟は詰襟です。ニセ証拠写真です。アイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」では「南京の南の雨花台の虐殺地点。この写真は南京虐殺後すぐに撮られてた」と説明がありますが大ウソです。日本のマスコミも偽写真を大虐殺の証拠として報道したりしているのですから、情けない話です。


 南京で大虐殺が行われたなら記者たちはスクープとして写真は撮るでしょう。南京での日本軍の蛮行を報じたのは「シカゴ・デイリー・ニューズ」のスティール記者と「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者です。ダーディン記者はカメラをパナイ号に置いていたときに船が日本軍の誤爆で沈没してしまい失いました。スティール記者は次のように虐殺を記事にしました。
「南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配ということになる。後者では何千人もの命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった」


しかし、スティール記者は虐殺写真を撮りませんでした。城外の写真は撮っていますが、これは記事に掲載していません。城内の写真を撮らなかった理由を後年のインタビューでは「南京の城内で写真を撮っているのを発見されたら、おそらくカメラは取り上げらていたでしょう」と述べていますが、日本人記者は問題なく撮影できています。また、都新聞の小池記者は城内で二台の車に分乗してきた外人たちがやってきて、おおっぴらに写真を撮っているのを目撃しています。2台ですから、4~5人と推測できます。スティール記者が含まれていた可能性は高いです。誰でも写真は撮ることができたのに一枚もないのはなぜか。実は写真は撮っていて記事にそぐわない写真しかなかったからではないでしょうか。


マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 証拠として通用する写真は一枚もない ・ 南京事件?嘘です?(2) 
 http://ameblo.jp/lander1208/entry-11367191293.html




H24.12.16追記
コメントより新たな情報をいただきました。松尾一郎氏の研究では水兵の写真の原本は線がわかるとのことです。松尾氏によると首を持つところに糸があり、当時の支那軍は斬首したあと、首を吊るすために糸をつないでいるとのことです。http://www.youtube.com/watch?v=4RAewwZGIeU&feature=channel_video_title



参考文献
 草思社「南京事件 『証拠写真』を検証する」東中野修道(著)
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)
 評伝社「外国人のみた日本軍の暴行」ティンバーリイ(原著) 訳者不詳
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)


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 スティール記者の撮影した写真「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」より(1)~(7)は中華門。
 死体は戦闘によるもの。スティール記者は敗残兵の銃殺は見たと言っているが、民間人の殺害は見ていない。


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 8 支那兵が連行されているとしている。


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 9 掃討戦。日本兵がこちらを見ている。
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10 支那兵がロープをつたって城外へ脱出した跡。


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世紀の大捏造、南京大虐殺

アメリカが捏造し、中華人民共和国が利用する南京大虐殺。


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マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 南京事件?嘘です!(1) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11366430366.html


 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で日本軍の蛮行があったと海外メディアは報道しました。戦後、東京裁判で、この南京事件が取り上げられ、中華民国政府が南京に調査へ行ったところ何もでてきませんでした。


 南京地方法院検察処敵人罪行調査報告
「この間、敵側の欺瞞妨害激烈にして民心銷沈(しょうちん)し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際においても、冬の蝉のごとく口を噤(つぐ)みて語らざる者、或いは事実を否認する者、或いは自己の体面を憚りて告知せざる者、他処に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者等あり」


 調査の妨害など誰がしたのかわかりませんが、結局目撃証言わずか1件。その後、なんとか500件の調査事実を発掘しましたが、採用できたのはわずか4件。中華民国はこれらと埋葬記録をあわせて34万の大虐殺と申し立てたのです。埋葬記録は完全にでっち上げでした。証人として国際委員会のマギー牧師が出廷していますが実際に目撃した殺人はわずか1件でした。しかも、日本兵が「誰か」と声をかけて逃げた男を撃ったというものです。大量虐殺などデタラメな話です。しかし、南京攻略時の司令官であった松井石根大将は有罪となり死刑となりました。


 こんな南京大虐殺などというバカバカしい話など誰も信じるはずはありませんが、この捏造南京事件を蒸し返したのは日本のマスコミでした。朝日新聞の本多記者の「中国の旅」(昭和46年)が出発点となっています。マスコミや知識人が「南京大虐殺」を叫びはじめます。東京裁判はGHQによる日本弱体計画として南京大虐殺をでっち上げましたが、今度は中華人民共和国(中共)のプロパガンダ攻撃の材料となり、対日外交カードおよび自国の愛国教育に使われたのです。南京大虐殺が中共の教科書に記載されたのは昭和54年(1979年)です(昭和56年とも)。南京戦は昭和12年(1937年)のことですから、42年間も支那人は知らなかったのです。朝日新聞によってそのことを教えられたのです。それまでは国民党が30万殺したとか教えていたそうです。


<支那の教科書変化>「日中再考」古森義久記者 ~ 「南京事件の探究」より
 昭和55年(1980年) 日本の南京占領の残虐性を描写
 --昭和57年(1982年)以降変化
 平成4年(1992年) 「南京大虐殺」という項目が設定される
 平成7年(1995年) 残虐場面を描く挿絵が新たに添付


 本多記者の「中国の旅」に疑問を持って鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」(昭和48年)を出版しています。鈴木明氏は「百人斬り」にも疑問を呈していますが、私などは南京大虐殺があったことに対して疑問を持たずに育ちましたから、GHQの日本弱体化計画である「自虐史観」は世の中にしっかりと根付いていたと言えます。そして中共の情報戦が追い討ちをかけて日本人の心に自虐意識を浸透させたのでしょう。「南京大虐殺のまぼろし」の声を掻き消して教科書を書き換えさせた中共日本支部である大新聞の威力は強大です。


 平成9年(1997年)にはアイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」が登場し、これで一気に南京大虐殺ホラ話が世界中に広まってしまいます。このときも私はまだ南京大虐殺に何の疑問も持っていませんでした。南京虐殺を否定する本が出版されたことがニュースになったのを覚えていますが、「そんなことを言う人がいるんだ」ぐらいに思ったものです。しかし、あるとき南京虐殺の特集をTVでやっているのを見て兵士の証言が不自然なことに気がつき、ネットが使えるようになると、やがて南京大虐殺はウソだったことに気づきました。


 中共はウソを悪いこととは思っていません。政治にすべてが優先するのです。歴史のウソも許されるのです。「政治掛帥」というのだそうです。中共では弁偽学という学問があり、何がウソで何が正かを研究する学問です。中共の正史(官書)というのはすべて偽史の書であるといえます。中共の知識人は心の中では南京大虐殺なんてありはしない、あるいは虐殺の支那の歴史の中では大した話ではないと思っているはずです。「南京虐殺」は中共にとっては単なる政治の道具なのです。


マンガで学べる南京大虐殺という大嘘
 南京事件?嘘です!(1) http://ameblo.jp/lander1208/entry-11366430366.html


参考文献
 オークラ出版「チベット大虐殺の真実」『チベット問題と北京オリンピック』若杉大
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 文春新書「南京事件の探究」北村稔(著)
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 明成社「再審『南京大虐殺』」大原康男・竹本忠雄(共著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 青木書店「南京事件資料集 中国関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)


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参考映像
 朝日が作った歴史
 http://www.youtube.com/watch?v=EoAmItpLGuE


 1971年8-12月 「朝日」本多勝一記者「中国の旅」連載
 ↓
 1972年9月 日中国交回復
 ↓
 1978年 中学歴史教科書に「南京」登場
 ↓
 1979年 中国の歴史教科書にも記載
 ↓
 1985年 南京大虐殺記念館開館
 ↓
 1994年 愛国主義教育実施要領(各地に反日記念館)
 ↓
 2005年 中国・反日デモ多発

 

朝日新聞は南京の虐殺数を特定していない



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