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インパール作戦は無謀だったのか

インパール作戦は一撃の成否如何の作戦だった。


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  昭和19年(1944年)3月に作戦発動したインパール作戦は補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦とよく言われます。しかし、作戦そのものはアラカン山脈を越えて奇襲攻撃をかけるもので、この一撃の成否であり、それまでの補給が間に合えばよい話です。
  作戦には自動車中隊150、駄馬輜重中隊60を必要としましたが、昭和19年1月時点で調達率は19%。そこで食糧の携行の他、牛や羊を大量に連れていくことにしました。ジンギスカン作戦といわれる所以です。家畜は途中で四散、脱落したりしていますが、現地人を使って訓練していた部隊は四散させることなく活動していたようです。このジンギスカン作戦には伏線があり、昭和17年(1942年)末から翌18年のアキャブ作戦(三十一号作戦)で第33師団二百十三連隊一大隊、山砲一中隊がアラカン山脈越えの300キロに及ぶ行程を乗り切った時、牛を連れていっています。牛は高山では凍死してしまい、それを食べています。こうした前例があるので、ジンギスカン作戦は無謀とは言えないでしょう。

  第31師団の主計将校の記録によると携行食糧は20日分で一人最低50キロになったといいますから、これは大変です。このほか食糧は現地人と交渉して徴発を行っています。また、英軍が放棄した陣地の倉庫から食糧を得ています。これも作戦の範疇ですが、こういった他力本願で予定がたたないことが作戦として認められるのか?という批判は当然あるでしょうが、実際には第31師団では3月15日の進撃から5月末まではなんとか食糧を調達できています。前述した第33師団二百十三連隊のアキャブ作戦の例では現地徴発の他、川で魚をとってしのいでいます。前例があるので、まったく成り立たないという話ではないでしょう。

  昭和19年3月にインパール作戦が開始される前の年の暮れ12月にインパール作戦の兵棋演習が行われています。兵棋演習は状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究です。このとき、南方軍司令部の今岡高級参謀がこのようなことを言っています。

「軍司令官(牟田口中将)が主張されているように、一ヶ月以内にインパールが攻略できるということであれば、今、軍が考えている補給計画で、その後の補給はなんとか追随できると思う。しかし作戦そのものが途中で頓挫すれば話は別である。突進戦法が失敗すれば補給は続かないし、軍の補給計画は全面的に崩れる。
  要するに問題は補給計画の適否というよりも、軍司令官の言われるように、迂回、突進戦法で敵が崩壊するかどうかの作戦上の見通しにかかっていると考える」


  つまり、補給計画の適否より、一撃の成否だといっています。インパール作戦の本質をついた言です。誤算だったのは第15軍司令官・牟田口中将は英軍はマレー攻略のときのように弱いと思っていましたが、インパール作戦のときには英軍は米国からM3,M4などの戦車や最新の自動小銃を備えており、航空機もふんだんに利用できるようになっていました。山越えのため軽装の日本軍は歯が立たなかったのです。このあたりの敵状の情報収集不足、分析不足には問題がありました。更にいえば昭和19年の時点では既に時遅く利非ず、昭和17年のアッサム進攻作戦(二十一号作戦)を実施すべきでした。

  そしてコヒマおよびインパール方面において一撃がうまくいかなかったときの対応が問題でしょう。牟田口司令官は3月作戦開始で天長節(4月29日)にはインパールを陥落させるとしていましたから、作戦の性質上、戦線が膠着すれば遅くとも5月中旬には作戦を中止しなければならないでしょう。しかし、方面軍司令官の河辺中将が視察にきたのは6月に入ってからでした。6月6日に牟田口中将と河辺中将が懇談しています。

牟田口中将回想
「私は『もはやインパール作戦は断念すべき時期である』と咽喉まででかかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」

河辺中将の日記
「牟田口軍司令官の面上には、なお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」

  何万の将兵の命を預かる軍司令官が「察してくれ」とは批判は避けられません。ビルマ方面の命運を握る方面司令官が前線を視察しておいて、戦況に望みがないと感じておきながら、軍司令官が「言わなかったから」として先送りしてしまうのは更に批判されなければならないでしょう。

  インパール作戦はこの後、1ヶ月にわたって悲惨な戦闘が続き、そして悲惨な退却となりました。一応、両将軍の名誉のために書いておくと、英ディマプール方面33軍団司令官スタッフォード将軍は日本軍のインパール作戦を好評価しています。



参考文献
  PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド(著)/茂木弘道(訳)
  光人社NF文庫「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣(著)
添付画像
  インパール作戦時のビルマの戦況と第15軍の作戦構想(PD)



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インパール作戦はなぜ実行されたか

牟田口批判は司馬手法。


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  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に日本陸軍により開始され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。 この背景にはチャンドラ・ボースらインド国民軍の「インド解放」の動きも後押ししました。特務機関である光機関の山本機関長はボースの言葉を使いながら昭和19年(1944年)1月25日に次のように戦略を説明しています。


「日本軍がインド内部のイギリス軍に最初の一撃を加えるやいなや、民衆はイギリス軍の力への幻想から醒め、大きな反乱が起こることが実際に期待できる」「そのため軍事作戦は大規模に実施する必要はまったくない。我々の目的は局地的な作戦で十分に達成されよう」

  しかしながらインパール作戦は動員兵力92,000のうち、戦死38,000、戦病40,000以上と大惨敗。補給線を軽視したな作戦といわれ、とにかく第15軍の牟田口司令官の評価は現在でも非常に悪いです。
  この作戦が認可される過程を追ってみますとほとんどの参謀が反対しています。それなのに作戦が認可されたのはなぜでしょうか。

  インパール作戦は昭和17年(1942年)8月に南方軍参謀の林璋(はやしあきら)中佐が計画したもので、二十一号作戦といい、インドのアッサム地方まで進攻するものでした。このとき第15軍司令官は飯田祥二郎中将は第18師団長だった牟田口廉也(むたぐち れんや)中将に意見を聞き、牟田口中将はこう述べています。


「一挙に東部インドまで突進しようとするこの案は、後方整備の関係、特に兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの諸点からみて、あまりにも時間的余裕がなく、実現の見込みはないと思います」


  この後、二十一号作戦はインド工作の状況から無期延期となります。対インド工作は光機関が宣伝工作やスパイを潜入させていましたが、まだ十分ではないという判断が働きました。しかし、昭和18年(1943年)3月のビルマ方面軍の再編成で、第15軍司令官となった牟田口中将はインパール作戦を強硬に述べるようになり、第15軍の参謀・小畑少将が反対すると更迭するという事件がおきています。当時の各首脳のインパール作戦の意見を簡単に表します。

 大本営・参謀本部
  |  東條英機陸相「無理するな」
  |  竹田宮参謀「作戦成立の見込みなし」
  |
 南方軍司令部
  |  総参謀副長・稲田正純少将「絶対許さん!」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「疑問だが、15軍に干渉過ぎるのもよくない」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「・・・作戦構想に修正が必要だが・・・」<=温厚な人柄
  |  片倉参謀「作戦構想を修正しないととても無理!」
  |
 第15軍
   牟田口司令官「やるっきゃない」
   小畑参謀長「反対」<=更迭される

 ところが猛反対だった稲田少将が昭和18年(1943年)10月に突然転出となります。

 大本営・参謀本部
  |  東條英機陸相「十分研究しろ」
  |  真田少将「やり方が違うだろ、ガ島をみればわかる」
  |
 南方軍司令部
  |  (後任)総参謀副長・綾部中将「うーん、できればやらせてやりたい・・・」<=心優しい軍人
  |  山田参謀「必勝の信念は牟田口中将一人。ダメ。中止したほうがよい」<=後で撤回
  |  今岡参謀「補給計画の適否より作戦上の見通し」
  |
 ビルマ方面司令部
  |  河辺司令官「牟田口にやらせたい」<=人情派 曖昧
  |  中参謀長「危険性が高い。再考の余地ないか」<=温厚な人柄
  |  
 第15軍
   牟田口司令官「今回の作戦こそ必勝の信念」<=一回やらせろ、独裁政権
   平井謀長「軍参謀は一切意見はいわないことになっている」<=更迭されるのが怖い
   第15師団山内中将「今、タイから異動してきたばかりでよくわからん」
   第15師団岡田参謀「無理だろう」
   第31師団佐藤中将「補給は間違いなくあるんだろうな」
   第33師団柳田中将(やっとれん)

  このような人事になって稲田少将の後任、綾部中将は参謀本部に上申し、真田少将が猛反対するのですが、参謀本部の杉山参謀総長が「寺内さん(南方軍総司令官)の初めて要望であり、たっての希望である。南方軍でできる範囲なら希望通りやらせてよいではないか」(<=人情派)と言って説得しました。

  このように人事異動などにより人情劇にながされてインパール作戦は決行が決まってしまいました。これで作戦は失敗し、数万の将兵が命を落としたのですから「なんてことだ」と思う人が多いと思いますが、それは現代では結果が大失敗とわかっているから言えることで、考えて見れば真珠湾攻撃も無謀といわれ大反対された中で認可された作戦でした。
  特に戦後は東京裁判史観により日本陸軍が批判の対象とされ、最大級の損害を出したインパール作戦は批判の格好の的になっている感があります。インパール作戦は「無謀な作戦」と言われるのは大東亜戦争は「最初から無謀な戦争」というGHQの刷り込みにも同期しています。また、インド国民軍のことはほとんど語られません。これはGHQのプレスコードによるものでしょう。
  ジャーナリストの高山正之氏によるとインパールを語る戦史は最初から結論が「牟田口が悪い」で決まっており、これは司馬手法だと言っています。司馬遼太郎の乃木希典、伊地知幸助評に似る、というものです。本来日本人は人民裁判的評価は行わないといいます。

  どうやらインパール作戦は「戦後の色眼鏡」を外して見なければならないようです。



参考文献
  PHP研究所「インパール作戦」土門周平(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
参考サイト
  WikiPedia「インパール作戦」

添付画像
  牟田口廉也(PD)


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新宿中村屋のボース

中村屋のカレーはこうして生まれた。


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  ラース・ビハーリー・ボース、1886年生まれ、西ベンガル州ブルドワンで生まれました。チャンドラ・ボースとともにインド独立活動を行った人です。

  ボースは1912年、イギリス高官の暗殺未遂で当局から追われ、同志のグプタとともに日本に脱出しました。そして支那の革命家・孫文のもとを訪れ、アジア主義者の巨頭・頭山満に会います。そして内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていきます。
  しかし、日本はイギリスと同盟関係(日英同盟)にあったためイギリスはボースとグプタの日本退去を要求します。日本政府はボースとグプタに5日以内の退去を命じました。退去期限の夜、二人は頭山満のところへ挨拶に行きました。二人の警官がボースとグプタに付いていましたが、頭山は二人を脱出させました。そして新宿中村屋の店主、相馬夫妻が二人を匿ったのです。ここで同店のインド・カリーが誕生し、相馬の愛娘とボースは結婚することになります。これでボースは「中村屋のボース」と呼ばれるようになりました。

  昭和16年(1941年)、日本は対米英開戦に踏み切ります。東條英機首相はインド独立援助を声明します。

  日本軍は破竹の勢いでマレーを進撃すると、イギリス軍の一大隊が退路を絶たれ、孤立していました。その大半はインド人でした。大本営参謀の藤原岩市少佐は一切武器を持たずに大隊を訪れ、投降を勧め、200のインド投降兵の身柄を預かることに成功します。やがてその中にいた中隊長のモハン・シン大尉の主導によってインド国民軍(Indian National Army、略号:INA)創設されました。

  インド兵捕虜と藤原機関の合同食事会。モハン・シンが述べた言葉。
「戦勝軍の日本軍参謀が、投降したばかりの敗残のインド兵捕虜、それも下士官、兵まで加えて、同じ食事でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では夢想だにできなかったことである。(中略) 藤原少佐の、この勝者、敗者をこえた、民族の相違をこえた、温かい催しこそはインド兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の千万言にまさる実証である」

  昭和17年(1942年)5月、タイのバンコクでインド独立連盟が設立され、中村屋のボースが総裁となります。この後、独立連盟とINAは不和があったもののチャンドラ・ボースも加わり、自由インド仮政府を樹立し、米英へ宣戦布告しました。そして日本軍とともにインパール作戦を戦うことになります。

  評論家、日下公人氏は戦後16年たった頃、シンガポールを訪問したとき、街中にある自動車修理工場を立ち止まってみていると、インド人が修理しているのを見かけました。扱っている車はほとんど日本製でした。「これはニッサンだね」というと、「あなたは日本人か、私もかつて日本の兵隊と一緒にインパールまで攻め込んだんだ」と言ってわれもわれも名乗りを上げてきたそうです。
「日本人はブレイブ(brave=勇敢)」とそればかり言って神様のように尊敬していたそうです。

  中村屋のボースは昭和20年(1945年)、日本で客死しました。日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してボースの仕事をねぎらいました。同年6月には、長男の正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死。インドは、日本が連合国に敗北してからちょうど2年後の昭和22年(1947年)8月15日に、イギリスから独立を勝ち取りました。



参考文献
  オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「なぜ日本は『大東亜戦争』を戦ったのか」田原総一朗(著)

添付画像
  「ラース・ビハリ・ボース氏謝恩の会」(1915年)(PD)
   テーブルの向こう側中央に頭山満、その後ろにラース、両者の手前に犬養毅。

新宿中村屋
  純印度式カリー 誕生秘話 http://www.nakamuraya.co.jp/curry_room/room_01.html


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日本兵士を讃えるインドの人たち

日本軍がやってくるのを待っていた。


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 ジャーナリストの高山正之氏がバングラディシュのチッタゴンを訪れたとき、地元有力紙「アザディ」の主幹モハマド・ハレドさんがこういいました。


「日本軍が来るのをみんなが待っていた」


 大東亜戦争当時、バングラディシュ(当時はインド)のあたりに日本陸軍一式戦闘機「隼」が空からビラをまきます。それには「日本は起てり!アジアの同胞として白人との戦いに決起せよ」と書かれていました。ハマド・ハレドさんはそのビラを大事に持っていました。そして日本軍がやってくるのをいつかいつかと待ち続けます。ところがやってきたのはインパールやコヒマで敗れた日本軍傷病兵ばかりでした。治療しても助からず現地の人は日本兵を埋葬し墓を建てました。墓碑には日本兵が持っていた遺留品に書かれているカタカナやひらがなが刻まれているそうです。


モハマド・ハレドさん
「6万にのぼる日本兵戦死者は決して犬死ではなかった」


 昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動。険しいアラカン山脈を越えてインパールへ向かいました。佐藤幸徳中将率いる第31師団はインパール北のコヒマを攻略しました。しかし、山脈越えなので補給がままならず、時間が経てば経つほど不利になり遂に撤退します。その後、コヒマに紫の花がいっせいに咲きました。この花は生命力が強くて繁殖力があり、少々のことでは枯れず、群生して仲良くいっせいに花をつける花でした。現地のナガ人はこの花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。武器弾薬の補給が途切れ、素手に近いような装備で敵の戦車を鹵獲(ろかく)する日本兵の敢闘精神、敵の圧倒的優位な武力にも屈することなく、最後まで組織的に戦った日本兵と二重写しになったのです。


 コヒマでは日本軍が擱座(かくざ)させたイギリス軍のM3グランド戦車が保存されています。アラカン山脈を越えてきた日本軍部隊は対戦車火器を持っていなかったため、布団に黄色火薬を詰めた即席対戦車地雷をキャタピラのしたにほうりこみ、敵戦車を破壊していました。現地の住民は来訪者があるたびに、「これは昔、日本のマスターがやったんだ」と我がことのように自慢しているそうです。


 インパールの北16キロにあるマパオ村では毎年インド独立のために散った日本兵士を慰霊する祭りが行われ、「日本兵士を讃える歌」が歌われています。




日本兵士を讃える歌


作詞作曲  マパオ村村民


日本語訳  古田中 勝彦


一、


父祖の時代より


今日の日まで


美しきマパオの村よ


いい知れぬ喜びと平和


永遠に忘れまじ


*合唱(繰り返し)


美しきマパオの丘に


日本兵来り戦えり


インパールの街目指して


願い果たせず


空しく去れり


二、


日本兵


マパオの丘に来る


それは四日の火曜日


一九四四年のことなりき


我は忘れじ四月のあの日


三、


罪なき民も散り散りに


西に東に追いやられ


再び神の恵を受け


集まり住まん


この地マパオに


四、


広島の悲報


勇者の胸をつらぬき


涙して去れる


日本の兵士よ


なべて無事なる帰国を


われ祈りてやまず




参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人 高山正之(共著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)


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今もインドで歌われる日本兵を讃える歌
http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk


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インドに散った日本兵士を讃える

インドに散った日本兵。


Photo


 昭和19年(1944年)3月、大東亜戦争ビルマ戦線で日本軍は「インパール作戦」を開始しました。インパールはインドにあり、インドはイギリスの植民地でした。インド解放へ日本軍とINA(インド国民軍)が共同でこの作戦を遂行しました。戦後はこの作戦は最初から無謀とか言われ、インド国民軍が加わっていたことを隠して語られていますが、無謀な作戦ではなく、最初の一撃の成否如何でアッサム地方のディマプールへ進撃する作戦であり、十分根拠のあるものでした。しかし、軍司令官と師団との意思疎通が悪く、結果的に補給が続かないため武器も弾薬も食糧も尽きて、悲惨な戦いとなりました。


 インパールへ行くにはビルマ側から険しいアラカン山脈を越えていかなければなりません。日本軍は山脈を越えて、インパールに近い、コヒマやビシェンプールでイギリス軍と戦いました。険しい山脈越えで、制空権もありませんから、武器や弾薬、食糧を補給していくのは大変困難なことでした。次第に弾薬や食糧が尽きてきて素手に近いような装備となり、それでも日本兵は必死になって戦いました。


 やがてインパール作戦は中止となり日本軍は引き揚げていきました。その頃、コヒマの野に紫色の花がいっせいに咲きはました。この花は群生で非常に生命力が強く、繁殖力があり、少々のことでは枯れない花でした。現地の人たちは敵の圧倒的優位な武力に屈することなく、最後まで組織的に立ち向かった日本兵の姿と二重写しになり、この花を「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。


 ビルマのアキャブから飛び立った日本陸軍一式戦闘機「隼」は空から宣伝ビラを撒いたことがあります。それには「日本は起てり!アジアの同胞として白人との戦いに決起せよ」と書かれていました。インドの人たちは「日本軍が来るのをみんな待っていた」といいます。しかしやってきた日本軍はインパールやコヒマで敗れた日本軍傷病兵ばかりでした。現地の人たちは日本兵を治療しますが、日本兵は次々に亡くなっていきました。そして死んだ日本兵を墓場の一番いいところに埋葬しました。インパールの北にあるマパオ村では毎年インド独立のために散った日本兵を慰霊する祭りが行われ「日本兵士を讃える歌」が歌われています。

 インパール周辺現地の人たちは日本軍が軍規厳粛で特に婦人暴行が全くなかったことを常に称賛するといいます。イギリス軍は略奪や婦女暴行が相当ひどかったようです。また日本軍の勇敢さは印象的だったようでコヒマには日本軍が擱座(かくざ)させたイギリス軍のM3グランド戦車が保存されています。この方面は山脈越えの軽装部隊だったため対戦車兵器がなく、布団に黄色火薬を詰めた即席対戦車地雷をキャタピラのしたにほうり込み、戦車を破壊していたのです。現地の住民は来訪者があるたび
「これは昔、日本のマスターがやったんだ」と我がことのように自慢しているそうです。

 レッドヒルというところでは日本軍第33師団の214連隊500人が全滅しました。その霊を弔うために地元のロトパチン村人が慰霊塔を立てました。村人は戦いの中で傷ついた日本兵のために食べ物を届けていたのです。
「私たちのために戦ってくれた」と。



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(偏)
 WAC「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人 高山正之(共著)
 ワック出版「歴史通」2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之



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参考映像
http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk




【日本兵士を讃える歌】

作詞作曲  マパオ村村民

日本語訳  古田中 勝彦



一、

 父祖の時代より

 今日の日まで

 美しきマパオの村よ

 いい知れぬ喜びと平和

 永遠に忘れまじ



 美しきマパオの丘に

 日本兵来り戦えり

 インパールの街目指して

 願い果たせず

 空しく去れり



二、

 日本兵

 マパオの丘に来る

 それは四日の火曜日

 一九四四年のことなりき

 我は忘れじ四月のあの日



三、

 罪なき民も散り散りに

 西に東に追いやられ

 再び神の恵を受け

 集まり住まん

 この地マパオに



四、

 広島の悲報

 勇者の胸をつらぬき

 涙して去れる

 日本の兵士よ

 なべて無事なる帰国を

 われ祈りてやまず

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