かつて日本は美しかった

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東京裁判で捏造された南京虐殺

南京虐殺をデッチ上げ、松井石根は死刑にされた。


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 作家の早坂隆氏は中共の南京へ行き、南京大学のキャンパスに近い料理店の一席で学生に「松井石根は日本陸軍きっての『日中友好論者』だった」と言うと、学生は「それは信じられない。日本人はもっと歴史を学ぶべきだ」と返してきたといいます。松井石根(まつい いわね)・・・昭和12年(1937年)の第二次上海事変から南京戦にかけて方面軍司令官だった人です。戦後、東京裁判で「南京大虐殺」の罪で死刑となりました。


 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。この東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わっていました。OSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。戦後、連合国はナチス・ドイツのユダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出来ると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環としてOSSが任されることになります。


 その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当でマルクス主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を内部から破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたもので、日本を破壊し、共産革命をおこすためのものです。


 GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年(1945年)12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」というプロパガンダ記事として前もって作られていたものでした。
 この南京虐殺のもととなったのは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。


 東京裁判では南京虐殺を陳述しても証人が出廷せず、反対尋問が行えないような証拠が多量に採用されました。しかし、さすがにナチスのような共同謀議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。逆に、松井石根は軍紀を厳しくするよう命令を出しています。検察側もこれには参り、司令官だった松井石根の訴因第1から第54までは無罪とし、第55(俘虜および一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)のみ有罪として死刑としたのです。


 松井被告に対して多数判決は「・・・これらのできごとに対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。


 南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
 東京裁判の南京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられ、松井石根は死刑になったのです。




参考文献
 「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
参考サイト
 WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
 松井石根(PD)



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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?

http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


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ウ将軍をなぐらなかった男

BC級裁判もデタラメ。


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 東京裁判の弁護人を務めた清瀬一郎博士は東條英機の弁護人でしたが、BC級戦犯で逮捕されたA中尉の無実証明に一役買っています。東京裁判というのは正式には「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。


 BC級というのは極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士らです。ABCは罪の重さではありません。BC級戦犯として起訴された中にA中尉がいました。A中尉は台湾の俘虜収容所にいた米軍のウェーンライト将軍を殴ったということで起訴されていました。俘虜収容所でブタか何かを飼う仕事が将軍に割り当てられましたが、将軍は老兵であり、そんな仕事をしたことがない。監視兵がもどかしがって、将軍の顔をピシャリとやったというものです。


 清瀬博士はA中尉はからの切々たる訴えによって巣鴨に出向き面会します。
A中尉「自分は台湾で俘虜監視の仕事にたずさわったのは事実であるが、ウ将軍を殴ったという事実はない。これは人違いか何かだ。このことを米軍調査官にふたたび三度訴えたが、取り上げてもらえない。このまま私は無実の罪で死ななければならないのであろうか」


 清瀬博士はA中尉と面会していてあることに気がつきます。A中尉は右手が無いのです。戦闘でやられて失ったため、俘虜の監視の仕事に回ったのでした。そこで同じ弁護人のブルーエット氏の名前でウ将軍に手紙を出してもらいます。将軍の顔面を殴ったとすればそれは右頬であったか、左頬であったか?ウ将軍からの返事は左頬を相手の右手の手のひらで強打された、というものでした。右手がないのに右手のひらで相手の左頬は叩けません。これでA中尉の無実が証明され、釈放されることになりました。


 これはめでたし、めでたし、というお話ですが、BC級戦犯と呼ばれる人の中には無実の罪で刑を受けた人は多かったと思われます。国内で戦後逮捕された者は家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が戦犯で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多いといいます。


 各国、各地より戦犯として証拠のあげられるものを集めて戦争犯罪局というところが、リストにしていましたが、もとが聞き取り調査などで不正確のものが多く、結構デタラメなものでした。リストは以下のように記述されました。


「フクダ、兵、マニラ、1943年5月(5フィート7インチ、160ポンド、左腕上部、肩のすぐ下に半ば削り取られた入墨、左上の第三歯に金冠、しゃがれ声、頬にかすかな傷)」

「カラジュウチ、ロス、ビノス飛行場、1943年9月~1944年9月(身長5フィート7インチ、体重170ポンド、ゴリラのような身体つき、黒髪、頬骨高く赤ら顔)」


とまあ、こんな感じです。中には「イワサ、マオジ、真珠湾」と特殊潜航艇で戦死した岩佐中佐まであげられており、何かの名簿を書き写しただけではないか、というような杜撰さです。


 BC級戦犯約5,600人が各地で逮捕投獄され、横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約千名がインチキ軍事裁判の結果、死刑に処されました。これは虐殺行為です。



参考文献
  中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
  新潮社「創られた東京裁判」竹内修司(著)
参考サイト
  WikiPedia「BC級戦犯」
添付画像
  巣鴨プリズン(PD)


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東京裁判を傍聴し、日本人の光を見た人

最後まで戦った日本人の姿があった。


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 以前、雑誌「正論」に神奈川県の白鳥誠一さんという方が東京裁判に傍聴に行ったときのことを寄稿されていました。東京裁判というのは正式には「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。白鳥さんは東京裁判で清瀬弁護人が「国際法、国際慣行に照らして、当法廷で戦争犯罪人を裁く権限はない。しかも日本は自存自衛のために戦ったもので、起訴状に該当するものがなく全員無罪」と弁じた姿を鮮明に記憶していると述べています。


 白鳥さんは物事には「光」と「闇」が表裏一体となっていて、古今の歴史は常に勝者の歴史観で綴られ、敗者にも光があることを抹殺されてしまうと述べて検閲によって東京裁判は正しいと日本人は洗脳された言っています。白鳥さんは清瀬博士は「日本人の光」と気づき、「日本国の日本人」を意識して今日まで過ごすことが出来たと述べています。
 白鳥さんは非常にいい機会に恵まれ「光」を見たと言えます。しかしながら多くの日本人は「影」ばかり見せられたばかりか捏造と歪曲の事実を刷り込まれ日本人として誇りを失ってきていると思います。


 清瀬一郎弁護士(「秘録・東京裁判」より)
「この裁判の最中に、毎日流されていった法廷記事なるものは、半分は嘘であった。司令部が新聞を指導し、いかにも日本が悪かったのだ、日本軍人は残虐行為ばかりをしておったのだと、日本国内はむろんのこと、世界のすみずみにまで宣伝した。しかもわが方としては、これに対抗する手段は封ぜられていた。判決は下されても、判決批判はいっさい禁ぜられていた」


「それゆえ、世間では日本の旧軍人は、戦時中敵国俘虜の虐待や婦女の陵辱ばかりしておったのかしら、日本政府は強盗やギャングのような侵略戦争の共同謀議ばかりしておったらしい。マッカーサーは偉い。マッカーサーのおかげで、天皇陛下は戦犯ともせられず、お助かりになったのだ、というような感想を深く国民に植え付けてしまった。ほんとうは、かかる感想は大いにあやまっておるのだが、しかしこれが誤解だといっても、今では世間は信用しない」


 我々は東京裁判で捏造されたウソの歴史を次の世代には残すべきではありません。誇りある歴史、清瀬博士のような毅然とした日本人がいたことを伝えたいものです。


 東京裁判弁護側冒頭陳述「結語」より
「われわれがここに求めんとする真理は、一方の当事者が公然と正しく、他方が絶対不正であるということではありませぬ。人間的意味における真理は、往々人間の弱点に包まれるものであります。われわれは困難ではありませうが、しかし、公正に近代戦争を生起しました一層深き原因を探求せねばなりませぬ。平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにあります。近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるものであろうか、資源の不公平配分により来るのであろうか、関係政府の単なる誤解に生ずるのか、裕福なる人民、または不幸なる民族の強欲、また貪婪(どんらん)にあるのであろうか、これこそ人道のために究明せられねばなりませぬ。
 起訴状によって示されたる期間中の戦争ないし事変の真実にして奥深き原因を発見することにより、被告の有罪、無罪が公正に決定されるのであります。これと同時に、現在、または将来の世代のために恒久平和への方向と努力の方途を指示するでありましょう」



参考文献
  産経新聞社 別冊正論「遥かなる昭和」
  小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  中公文庫「秘録・東京裁判」清瀬一郎(著)
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  極東国際軍事裁判市ヶ谷法廷大法廷(PD)



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プライド~運命の瞬間~ 特報・予告編 ・・・日本人すべてがこの映画を見るべき
http://www.youtube.com/watch?v=PaHw8Vq69-Y


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狂気が先行した東京裁判

東京裁判は文明の裁きではない。


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 昭和20年(1945年)日本敗戦後、東京裁判が行われました。正式には「極東国際軍事裁判」と言います。昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われました。戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。


 東京裁判では昭和天皇は訴追されていません。これは天皇・マッカーサー会談で連合国最高司令官マッカーサーが昭和天皇の態度を見て感激し、天皇を残すことを決めたという話があります。そういう部分はあったと思いますが、実際はOSSというアメリカ戦略情報局によってほぼ決まっていた規定路線だったことがわかっています。マッカーサーはこれに従っているだけです。天皇を利用して日本統治を進めようとしたのです。


 しかし、ソ連とオーストラリアは昭和天皇を裁くべきと主張しました。ソ連は日本国内を混乱に落としいれ共産化したかったと思われます。オーストラリアは人種差別的意識からではないかと思います。ウェッブ裁判長(豪)も同調していました。


 オーストラリアは昭和21年(1946年)1月に62名の戦犯リストを提出しています。この中に昭和天皇の名前がありました。これにはオランダ、ベルギー、ニュージーランドが同調し、イギリス、中華民国、ノルウェーは反対しています。


 この前年の昭和20年(1945年)11月に米国の統合参謀長会議はマッカーサーに極秘通達を送っています。


「天皇は戦争犯罪人として逮捕、裁判、処罰から免れていない、というのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行し得ると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されるものと考えてよかろう」


 規定路線として天皇を利用して統治を進めるものの、それが軌道にのれば天皇訴追を考えてもいいのではないか、というものです。しかし、マッカーサーは東京裁判に対してかなりの部分で否定的だったので、オーストラリアが天皇を訴追すべきとしたとき「そのような証拠は何もない」とし、「もし天皇を裁判に付そうとすれば、占領計画に大きな偏向を加えなければならず、占領軍の大幅増強が絶対不可欠となるだろう。最小限にみてもおそらく百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」と反論し、この議論には終止符がうたれました。


 これらの話もドイツを裁いたニュルンベルクの憲章自体も、それを東京裁判に持ち込んだりするのも、この頃は文明とは思えない狂気が先行していたと感じますが、意外にもマッカーサーはこの点では比較的冷静だったようです。


 東京裁判の判事・インド法学者パール博士は「パル判決書」というのを書き上げています。日本語に訳して88万5000字あまりの大文章です。堂々と「日本無罪」を主張した「パル判決書」は次の言葉で締めくくられています。


 時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、
 また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、
 そのときこそ、正義の女神は、
 その秤を平衡に保ちながら、
 過去の賞罰の多くに、
 そのところをかえることを要求するだろう。


 われわれ日本人はあの東京裁判が正義はあったのか。パール博士の言葉に耳を傾け、東京裁判とは何だったのかを正しく後世に伝えて行かなければなりません。




参考文献
 新潮選書「創られた東京裁判」竹内修司)(著)
  中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
  「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)


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  裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂(PD)


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東京裁判は梅毒のようなもの

反日国家による歴史攻撃の元凶。


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 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は東京裁判は梅毒のようなものだ、と述べています。東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日~1948年11月12日)。


 渡部氏は靖国に関する支那問題、教科書問題、同じ問題がその時々で問題化するたびに、問題自体がより悪質化し、根が深くなっていると述べています。この「だんだん悪質化する」ことを例えるのに「梅毒」という例を挙げています。梅毒はまず硬いしこりや発疹ができますが、自然に消滅します。3ヶ月ほどして発熱から関節痛、全身発疹等の症状が出ます。3年後、全身に硬いコブのようなゴム腫が現れ、10年以上放置すると中枢神経が冒され死に至ります。


 東京裁判は言うまでもなく、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法であり、偽証罪もなく、管轄権もありません。インチキ裁判です。


 日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判を受け入れたというのはウソで、諸判決(Judgments)を受け入れたのであって、裁判を受け入れたわけではありません。そしてサンフランシスコ条約は判決を停止できる条件があり、日本はこれに基づいて諸判決を廃止しました。どこの国からも文句は言われていません。昭和28年(1953年)の特別国会で改正遺族援護法が成立し、東京裁判で戦犯とされた人も通常の戦死者として扱うことを社会党、共産党を含む全会一致で決定しています。


 しかし、戦後の公職追放によってできた空席に共産主義者が潜入し、梅毒を撒き散らしていきました。具体的には敗戦利得者である政治家、朝日新聞をはじめとするマスコミ、日教組といった教育界が撒き散らしていきました。渡部氏はこの梅毒を根治するために三段階にわたる治療の提案を行っています。


1.独立回復記念日を制定すること(4/28)
 日本に独立がなかったときがあったことを国民がよく知るというもので、国旗も国歌斉唱もできなかった。主権がないときに憲法が作られた。そして東京裁判が行われた。


2.東京裁判の実体を国民がよく知ること
  前述したような事後法で裁かれたこと、偽証罪もなく、管轄権もなかったことなど。


3.マッカーサー証言を日本に知らしめること
 昭和26年(1951年)の米国議会乗員の軍事外交合同委員会の答弁です。
「日本は絹産業以外は国有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給が断ち切られたら1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」


 最近、このマッカーサー証言を学校教育に取り入れているところがあると聞きます。日本人はすべて知るべきでありましょう。この梅毒はわが子の世代までには絶対に根治しておきたいものです。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
  WAC「日本は侵略国家だったのか 『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
参考サイト
 msn産経ニュース 「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm
添付画像
  サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団(PD)


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