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座間味島集団自決のタブーか

沈黙を守った山城安次郎氏。


Sphoto_by_sitake_sep2005


 1945年3月25日の夜、23日からの艦砲射撃と米軍上陸の噂でパニック状態になった村の幹部は死ぬなら皆一緒に死のうと軍命令と偽り村民を忠魂碑の前に集合させます。「自決」のための手榴弾を支給してもらおうと村の幹部が本部壕の梅澤戦隊長を訪ねますが、「自決なんかするな!」と怒鳴られ追い返され、集合していた村民は村長から解散命令が出ます。
 15歳だった宮平秀幸氏は家族と自分の壕に戻る途中に国民学校の教頭をしていた山城安次郎氏に出会います。山城氏は軍服姿に帯刀していました。

宮平秀幸証言より

山城氏
「民間人が何で今頃こんなところをうろついているのだ。みんな立派に自決しているのに、お前たちは自分で死ねないのか。意気地なしどもが。刺し殺してやるからそこへ並べ。」

宮平氏の祖父
「先生、夕べは皆で自決だといって忠魂碑の前に集めておいて、今度は軍が弾薬をくれないから自決はしない解散だという。また、先生はここで死ねという、どっちが本当なんですか」

宮平氏の母親
「整備壕や第二中隊壕の兵隊さんたちは、死なずに頑張れといっていたのに、どうして死ななければならないのですか」

宮平氏
「先生や役場の人は死ねというが隊長や兵隊さんは、生きろと言っている。玉砕命令は誰の命令ですか」

山城氏
「梅澤隊長の命令ではない。昨日(25日)の午後、村の三役が産業組合壕に集まり、そこで皆で決め、助役の宮里盛秀の命令として出させたのだ。そして各壕を回って、軍の命令だといって忠魂碑の前の広場に集合するように伝達させたのだ。」

 
 宮平氏は海軍少年兵に志願し合格しましたが、戦局の悪化により船がなく、島に待機しており、軍の伝令役をやっていました。宮平氏の回想では自分の立場の発言が決定打となり山城氏は引き下がったとしています。
 村の幹部がパニック状態だったことがわかります。狭い島ですから逃げるところはありません。島民への指揮系統は軍ではなく村の幹部にあります。恐怖と村民への責任からパニックになっていたのでしょう。

 玉砕命令は助役の宮里盛秀からであると女子青年団員をしていた宮城初枝さんが告白しており、話は一致します。村の幹部は産業組合壕で15家族、67人が自決し、助役は三八歩兵銃で自決していました。しかし、全員を殺せるほどの銃弾は村にはなく、頭部が割られた状態で死んでいた人がいました。自決が行われた壕のほとんどでは生存者や目撃者がいるのですが、ここでは一人もおらず、謎とされています。

 山城安次郎氏は後に沖縄テレビ社長となり、県文化功労者賞を受賞するまでの成功を収めています。彼は座間味で米軍保護下の中で住民より隔離されていたといいます。その後、座間味を去ります。彼は座間味での出来事は徹頭徹尾沈黙を守り1995年に八十五歳の生涯を閉じます。栄光をつかんだものの苦悩にも満ちた人生だったのかもしれません。




参考文献
 PHP「沖縄戦集団自決の謎と真相」秦郁彦(編)
      『沖縄タイムズと山城安次郎の神話を追う』江崎孝
      『宮平秀幸陳述書』
 高文研「母の遺したもの」(第ニ刷)宮城晴美(著)

参考サイト
 検証・沖縄集団自決高裁判決 -あなたなら、どのような審判を下しますか?-
  http://www.jiyuu-shikan.sakura.ne.jp/tokushu/tokushu10.html
 沖縄戦関係資料閲覧集 証言集 慶良間諸島
  http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony.html
添付画像
 沖縄県座間味村にある座間味島・高月山展望台からの眺望。手前が座間味港、対岸左側に阿嘉島が見える。Photo by Si-take. Sep.2005


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 座間味の宮里ナヘさんの証言に「お前達、今頃逃げてもどうしようもない。こっちに
並べ、すぐ殺してやるから」と盛んに呼びかけている老人の話が出てくる。山城氏は学校の教頭であり、島では有名人だし、当時35歳だから老人とはいえない。別人と思われるが、証言者があえて有名になった山城氏を伏せるため、ごまかしたとも考えられる。座間味の証言では不思議と山城氏の名前が出てこない。山城氏は師範学校卒で尊敬され、村の唯一生き残りの幹部であるはずだが・・・
 座間味が米軍に占領されたとき、住民は収容所に収容されたが、山城氏は村はずれの鉄条網で封じた祠の中に一人だけ隔離された。絶えず二人の米兵が厳重な警備に当たっていた。住民の殺し合いはその後タブーとされていたが、酒の席では話が飛び出したという。そして山城氏は座間味を去り本島へ行った。ほとんど座間味島に帰ることはなかった。

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