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学徒出陣

様々な思いを胸に。


19431021


 大東亜戦争最中の昭和18年(1943年)10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布しました。それまでは兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されており、次第に徴兵猶予の対象は狭くされ、ついには理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃することとなりました。戦場に行くことはないと思っていた学生たちの気持ちは複雑なものがありました。


丸山昴(兵科四期・対潜・東大・防衛事務次官)
「戦局がこんなに切迫しているのに、俺たちだけ大学の中で特権に甘えていていいのだろうか」


香田一郎(兵科四期・対空・東京トヨタ自販)
「いずれ当然来るべきものが来たまでだ」


宮井仁之助(飛行要務十四期・東大・日本生産性本部理事長)
「軍国主義もここまで来たか」


吉田満(兵科四期・電測・東大・日銀幹事)
「今この祖国が騒然としている中で、大学で勉強していても前途に何があるか。学問をやりたかったら舞台が転換してからでも遅くはない。参戦は決して学生の本分ではないが、来るべきものは迎えよう」


藤森耕介(兵科四期・対空・湖北工業常務)
「若干二十二歳、国家も俺とともに終焉が近いのか」


 “俺たちが始めた戦争ではない”などさまざまな思いから批判する学生も多かったといいます。しかし、運命を受けいれるほかはありませんでした。「戦争が始まった以上、選択の余地はない、時代の運命だな」(上記 宮井仁之助)


 昭和18年10月21日、東京神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開かれました。朝から雨がシトシト降っていました。


東條英機の演説一部
「茲(ここ)に明治神宮外苑の声域におきまして、征途に上がらんとする学徒諸君の装容に接し、所懐(しょかい)を申し述ぶる機会を得ましたることは私の最も欣幸(きんこう)とする所であります。(中略) 諸君は胸中深く決する所あり、腕をして国難に赴く烈々たる気迫、将に勇敢なるものがあることを、私はその諸君の輝く眸(ひとみ)に十分これをお察しし得るのであります・・・」


  この東條首相の演説を聞いた学生の感想。
「忠君愛国を叩き込む話で、またかという感じだった。毎度同じ事を聞かされてうんざりですね」
「国の考え方が正しいという前提に立っていますから、頼むよという首相の言葉に対し、死を持って報いようと思いましたね」
「『生還を期せず』をことさら高く読み上げたのは、個人としては違和感がありました。戦争だから死ぬことはあるが、だからといって、死ぬことにこだわるのはおかしいと思いましたね」


 案外、学生は冷静に捉えています。戦前は真っ暗な時代であり、若者はみな教育を通して忠君愛国ガチガチに洗脳されていたというイメージからは程遠いです。イメージは戦後創られたものでしょう。


 壮行式の一般スタンドでは女学生たちがいっせいに紺の上衣を脱ぎ、白いブラウス姿に変わり、無限の連帯と哀惜の意思表示を行います。雨の中、誰一人傘をさす生徒はいませんでした。最後の隊列がゲートを出ようとするときスタンドの人波は崩れ、女学生が出口にどっとなだれを打って駆け寄ってきました。これは当時は不謹慎なことでしたが、「一期一会」、これで終わりだと思ったゆえのタブー破りでした。
 スタンドの女学生の中には東條英機の三女、幸枝さんがいました。幸枝さんは家では見せたことのない、大きな苦悩を抱えた父の姿を見て、涙が流れてしかたなかった、やむにやまれず学徒出陣という手段をとったものの父も悲しかったに違いないと思いながら、直立不動で父、東條英機を見つめていたといいます。



参考文献
 角川学芸出版「東條英機」太田尚樹(著)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
参考サイト
  WikiPedia「学徒出陣」


添付画像
 出陣学徒壮行会(1943年10月21日)(PD)


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学徒出陣 昭和18年 1943年
http://www.youtube.com/watch?v=rohZy17TL_I


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