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石原莞爾不在の東京裁判

石原莞爾が起訴されなかったわけ。


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 石原莞爾と言えば、満州事変を思い浮かべる人が多いでしょう。戦後のWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって戦争についての罪悪感を植えつけられている日本人は日本軍が満州事変を起こして侵略したと思っているでしょう。ところが石原莞爾は戦後の東京裁判で裁かれていません。同じ満州事変に関わった板垣征四郎は死刑になりました。WGIPに洗脳されていてもこういう不整合に気づいている人もいるかもしれません。実は私もその一人でした。実際には満州国は正当な国家であり、日本の侵略ではなく、満州と支那はそもそも別ものです。東京裁判はインチキ裁判でした。


 石原莞爾は昭和16年(1941年)には予備役になっており、終戦は講演先で玉音放送を聴いています。昭和20年(1945年)9月以降、全国に講演旅行を続けています。アメリカのジャーナリストのマーク・ゲインは関係者を取材し「日本は新しき救世主以上のものを得つつあった」と評しています。


 昭和21年(1946年)1月以降は持病が悪化し、入院しています。米、英、ソの検事が臨床尋問した際には「戦犯の中で第一級は、空襲、原爆投下で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙したトルーマンで、本当の元凶は鎖国の日本を脅かし、開国させ、日本を台湾、朝鮮、満州に赴かせたペリーである」と答えました。東条英機と意見が対立していたというではないかとの問いには、「東條には思想も意見もなく、意見のない者と意見の対立はない」と答えています。
 石原莞爾は「満州国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判など始められようか。私のいない東京裁判など滑稽である」とも言っていましたが、昭和21年(1946年)4月には石原莞爾は戦犯リストから削除されました。


 石原はそれでも昭和22年(1947年)5月に東京裁判酒田出張法廷へ板垣征四郎の弁護側証人として出廷し「満州事変は支那軍の攻撃に起因し、本庄繁関東軍司令官の決断による自衛権の発動である」と強調します。石原は、連合国の判事、検事を相手に一歩も退かず、堂々たる論陣を張り、ときには彼らを翻弄しさえしました。その見事な弁論と驚異的な頭脳は彼らを驚愕させ、最後には彼ら心に深い感激を与えるとともに、なぜ日本の戦争指導部は石原を遠ざけて用いなかったのか?と疑問に思ったといいます。


 石原莞爾が戦犯リストからはずされたのは病気を患っていたことが理由とされていたようですが、石原は「もし、証言台に立てるのであれば裁判官や検事たちに堂々と“日本の言い分”を述べてやるのだが」というようなことを言っており、日本陸軍最高の理論家が法廷に出現することを連合国側が避けたとも言われています。石原は言論で対抗しましたがGHQは新聞各紙に圧力をかけ、石原の言論を封じ、所属していた東亜連盟の解散を命じました。それでも石原はトルーマンとマッカーサー軍政を批判し続けました。


 石原莞爾は板垣征四郎が死刑判決を受けたとき、「石原も遠からず追いつくことと考えますから、若し道のあやしいところがありましたらお待ちください、道案内は自信がありますから」と伝言を書き、板垣の遺髪を国柱会の霊廟に納める、法華経を上げての簡素な葬式を手配しました。


 石原は昭和24年(1949年)8月15日、終戦からちょうど4年目に生涯を閉じています。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 新潮45・2009.8「石原莞爾『終戦日記』で読み解く日本再建への執念」早瀬利之
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
  WikiPedia「板垣征四郎」「石原莞爾」


添付画像
  石原莞爾 毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」より(PD)


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