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南京陥落後の支那軍便衣兵の処刑は合法

便衣兵の処刑は虐殺ではない。


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 昭和12年(1937年)8月、支那軍が日本海軍陸戦隊を攻撃し第二次上海事変が始まり、11月に支那軍は総崩れとなり、日本軍は追撃戦に移り、12月に南京戦となります。日本軍は12月13日、南京城内へ突入しました。14日から16日まで掃討戦を行います。しかし、困ったことに支那兵は平服に着替え、便衣兵として安全区と言われる民間人の避難場所に潜伏しまったのです。日本軍から見れば彼らは武器を隠し持ち、戦闘意思を持った集団でした。日本軍が摘発した支那兵の隠匿兵器はトラック50台分に及びました。


 1月4日付 ニューヨーク・タイムズ
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、爆薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
 この元将校たちは、南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」


 戦争時はハーグ陸戦法規という一定のルールがあります。その中に「交戦者の資格」というものがあります。
1)部下の為に責任を負う者に在ること
2)遠方より認識し得べき固着の特殊標章を有すること(軍服などのことです)
3)公然兵器を携帯すること
4)その動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること


 南京陥落のとき支那軍の大将・唐生智は兵たちをおいてトンズラしていました。高級将校は安全区の中に隠れました。便衣兵は民間人の服を着て安全区の中に隠れました。武器も隠し持っていました。つまりハーグ陸戦法規に違反していたということです。交戦の資格を有しないものは「捕虜」になることはできません。本来は大将あるいはそれに準ずるクラスの将官が正式に降伏し、武装解除すれば兵士たちは捕虜としての待遇を受けることができます。しかし、支那軍はそれを行わなかったため、停戦なく、戦闘が継続したのです。その中で日本軍は便衣兵を摘発し、一部の反抗的な便衣兵、敗残兵を処刑し、従順なものは捕虜として保護しています。この便衣兵の処刑は合法的であり、虐殺には相当しません。


 当時の法規の認識として日本本土決戦計画の「国民義勇隊」を組織する話の中で南原東京帝国大学法学部長は以下のように述べています。


「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方がないのです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に会います」


 これが当時の法解釈のスタンダードでしょう。南京戦の便衣兵の処刑は法律上問題ないという見方ができます。一方、違法という意見の人もおり、ハーグ陸戦法規の「前文」には、各条文の内容を「人道的見地から運用する必要」というのがあり、「捕虜の処刑に対しては裁判の手続きを要する」という人もいます。ただ、これらは現代感覚に照らし合わせた「人道」であり、当時の感覚ではないように思います。捕虜になっても襲ってくるような支那兵という特質、大将が見捨てて降伏手続きをとらなかったという背景というのも考慮しなければならないでしょう。


 当時の安全区にいた欧米人も国際法上の「判断」に基づく批判はなく、南京の安全区を管理していた国際委員会は便衣兵と思われる処刑を目撃し、「われわれには日本軍の合法的な処刑について抗議する権利はない」と記録しています。また、国民党政府顧問のベイツ教授でさえ、安全区に隠れていた兵士が摘発されたとき「この男がもと兵士だったならば、われわれは手出しはできない」という軍事上の判断を示しています。安全区の記録は国民党の宣伝本「戦争とは何か」にも掲載されており、宣伝本でさえ便衣兵の処刑は合法的と見ており、支那国民党のスパイをも国際法違反という感覚は無かったということです。亜細亜大学東中野教授の研究では国民党の宣伝本の「戦争とは何か」でも日本軍の捕虜の処刑の違法性の部分を削除するなどしており、執筆したベイツ教授は認識していたとし、国民党は国際法上の観点も研究していたはずである、と結論づけています。つまり便衣兵の処刑を虐殺だと誰も認識していないということです。



参考文献
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 文春新書「南京事件の探究」北村稔(著)
 草思社「南京事件『証拠写真』を検証する」東中野修道、小林進、福永慎次郎(共著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)


添付写真
 「南京陥落後の街頭にて」(昭和12年12月20日)、林特派員撮影、同25日、朝日新聞に掲載
    ~ 日新報道「南京の真相」


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南京虐殺ニセ写真
東北地方のプロック紙「河北新報」の平成7年(1995年)年5月20日付夕刊に掲載された。
仙台市在住の旧軍人から「日本兵の軍服が当時(昭和12年12月)と異なる」と指摘された。
将校は長靴で帯刀するが、軍刀がないし、日本兵は左肩から右腰にベルトをしないことから日本兵ではない。(H7.3.5産経新聞より)


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