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日タイ間の古代、サムライが渡った中世

日本とタイの関係は古かった。


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 日本とタイの間の歴史というと「山田長政」を思い浮かべる人がいるでしょう。17世紀前半のアユタヤ王朝の親衛隊長になった人で600名の日本人義勇兵を率いていた実力者です。日タイ400年史というとこのあたりからを指します。


 ずーっと古くは西暦542年、欽明天皇のとき、「百済(くだら 朝鮮半島にあった国)王は扶南の財貨及び土人二人を献上した」と日本書紀に書かれており、扶南はタイ、カンボジア方面に存在した国を指しています。現在のタイ民族は諸説ありますが、6,7世紀ぐらいに漢民族の圧迫を受け、揚子江以南より移動して人たちと言われています。ちょうど時期はこの頃になりますが、まだ現在のタイには到達していませんから、大和朝廷に献上された土人というのは先住民モン・クメール系の民族かもしれません。


 平安時代の初期、皇族の高岳親王(たかおかしんのう)は出家され、861年に唐へいき、インド歴遊のため、広東より船で出発し、羅越国で薨去(こうきょ)されたと伝えられています。羅越国は中部タイにあった国という説があります。
 平安時代、鎌倉時代、日本は唐や宋の国と交易をしていましたが、これらを通じてタイとも交易をしていました。タイは1238年にタイ民族による近代的組織を持ったスコータイ王国が建設され、タイの船は直接日本にも行っていたようです。
 1350年、タイではアユタヤ王国が建設されました。アユタヤとは琉球との交易が見られるほか、室町幕府が支那をはじめ南方諸国との交易を認めていたため、九州の大名や長崎、博多の商人が東南アジアに貿易船を派遣し、米、銅、明ばん(鉱物)、砂金、陶器、支那の布地を積んでいったと言われています。


 室町時代末期から戦国時代になると戦に敗れた失意の武士がアユタヤへ行くようになりました。武士はアユタヤ王室や高官たちの義勇兵または親衛隊に雇われるものが多くいました。アユタヤ王第18代のナレスワン大王のときの1593年に侵入してきたビルマ軍をスパンブリ郊外で迎え撃ち、ビルマ王子を討ち取るというタイでは有名な戦闘に、日本のサムライが500名参加していたと言われています。その後の1596年、ナレスワン大王はチェンマイを攻略しましたが、このとき、日本のサムライが従軍して手柄を立てたと言われています。アユタヤ王朝は冒険的な支那人、欧州人も義勇兵として採用していましたが、日本のサムライは忠実かつ勇敢であったので歓迎され、好遇を受けました。


 江戸時代に入るとタイとの交易のため幕府から朱印状を交付されるものが数を増し慶長9年(1604年)から元和元年(1615年)の間に30件に及んでいます。長崎の木屋弥三右衛門は1606年に渡航して以来、計5回の朱印状の下付を受け、タイの滞在期間は延べ10年間に及び、アユタヤ事情に通じていたので、元和7年(1621年)にタイの使節団が来日したとき、江戸城中に召されて通訳を勤めています。
 この頃、アユタヤでは日本人街が作られ、オークブラ純広という日本人が活躍していました。「オークブラ」というのはアユタヤ王家から授爵された冠位で、上からチャオピヤ、オークヤー、オークブラ、ルアン、クンの五階級あります。純弘の次は津田又右衛門、その次が白井久右衛門が日本人町の首領となり、その後に山田長政の時代となるわけです。長政はオークヤー・セーナーピムックの称号が与えられました。


 日タイ間の公式の修交は慶長11年(1609年)、エーカトッサロート王に鎧、刀剣、馬具を贈ったところから始まり、アユタヤ王からはタイの香木や欧州より入手した火器を贈られています。元和2年(1616年)にはアユタヤ王朝より初めて日本へ公式の使節が送られました。元和7年(1621年)、アユタヤ王朝のソングタム王は日本へクン・ピチットソムバット、クン・プラサートを日本へ派遣しました。


アユタヤ国王より将軍徳川秀忠に宛てられた書簡
「日タイ両国に海があることは両国の連絡を困難ならしめて来たが、今やわれわれの交易船が通い両国の親善関係を一層緊密化した。閣下(将軍)はわれわれを心から愛され親族以上の親しみをもって交わっておられる」


秀忠からの返書
「日タイ両国間の親善関係は誠実を基礎としているから絶対阻害されることはない。両国の間に海があることもなんら大した障害ではない」


 この後、タイではカンボジアのジエタ王がアユタヤへの朝貢をやめたので、アユタヤ朝はこれを攻撃しましたが、プノンペン在住の日本のサムライ部隊がカンボジア王を助けてアユタヤ軍を撃退したため、アユタヤ王朝は江戸幕府にカンボジア在住の日本人にアユタヤとの戦闘に参加しないうよう命令してほしいという要請が出されます。そして秀忠は「日本人は政治に関与すべきでない」という返書を送っています。


 やがてタイでは山田長政が死去し、江戸幕府は鎖国令を出したので、日タイ両国の交流は約250年もの間、途絶えることとなりました。




参考文献
 時事通信社「日・タイ四百年史」西野順治郎(著)
 中公新書「物語 タイの歴史」柿崎一郎(著)
 転展社「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター(編)
添付画像
 アユタヤ王宮・サンペット宮殿(PD)


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