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第31師団の独断撤退、そしてコヒマに咲いた花 ~ インパール作戦

コヒマに日本兵の花が咲いた。



Photo_2



 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦発動。佐藤幸徳中将率いる第31師団は3つの突進隊に分かれ、アラカン山脈を越えてコヒマへ進撃しました。4月上旬にはコヒマを占領。1個師団が山脈越えでやってくるとは思っていなかったイギリス軍は大慌てとなります。コヒマはディマプールとインパールの間にあり遮断されればインパールの補給ができなくなります。またディマプールまで攻撃されると、ベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、米軍を崩壊させることになるからです。そしてコヒマで2ヶ月にわたり攻防戦が繰り広げられました。


 インパール作戦は兵站の問題がよく指摘され、補給がままならない状態であったと言われています。第31師団歩五八の主計将校の記録によると現地徴発を行なっています。主食の他、牛や豚を多量に集めることができたとあります。しかし5月からは敵戦車も出現するようになり、砲撃も激しく食料調達、炊事が困難な状況になっていきました。師団本体の方面はイギリス軍の挺身旅団が後方に侵入し、宣伝によって付近住民の感情が悪化して徴発に応じないようになっていました。

 そして6月2日、佐藤幸徳(さとう こうとく)師団長は補給がないことを理由にコヒマから独断で撤退してしまいます。

 ビルマ方面司令部宛

「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」

 佐藤中将は独断撤退しましたが、師団の支隊である宮崎繁三郎隊は6月22日までコヒマ~インパール道の遮断し、踏ん張っていました。しかし、イギリス軍の1000両におよぶ戦車自動車に突破されました。日本軍には戦車に対して有効な対抗手段を持っていませんでした。
 先に撤退した佐藤師団はモンスーンの季節になった泥んこの道でマラリア、脚気、アミーバ赤痢で苦しみ歩けぬようになり自決するもの、部隊から離脱するものが続出します。それでも残り少なくなった牛を殺して食べたり、山中でタケノコを取って退却行軍しました。1ヶ月かけてチンドウィン河にたどり着きますが、雨季の濁流によって体力が落ちた兵は飲まれて流されてしまいます。

 7月5日に宮崎支隊に撤退命令がでます。第31師団本隊が糧食を求めて撤退した後を行くのです。籾ひとつ残っていない死の退却路です。

 宮崎少将は各部隊に以下を伝達します。


一、後退途中、まだ息のある行き倒れの兵にあったら、必ず救うこと。
二、既に死亡している者に対しては、部隊名と姓名を控えた後、道路から見えないところに死体を運ぶか、または深く埋めること。


「よいか。餓死した死体を敵に写真に撮られて、宣伝材料に使われないよう。日本軍の退却は、このように立派だということを、敵に教えることも大切だが、もう一つ、戦友は絶対に捨てない、という考え方を確立することが、一番大切なのだ。軍隊として一番大切なことであるので、いま命令した二項目は、わが部隊がたとえ、それを実行することに拠って全滅してもよい。絶対に厳守して実行してほしい」 

第31師団参加兵力 約15,000
死亡 : 7,500(戦死4,000 戦病死3,500)
戦傷、戦病によって部隊を離れたもの 4,500

 日本軍がコヒマから去ると野生の雑草の紫の花がいっせいに咲きました。この花は生命力が強く、繁殖力があり、少々のことでは枯れません。そして群生して仲良く一斉に花をつけました。現地のナガ族は敵の圧倒的優位な武力に屈することなく、最後まで組織的に戦い、素手に近い装備でも敵の洗車を鹵獲した日本軍の敢闘精神とこの花が二重写しとなり「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。




参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
参考サイト
 WikiPedia「佐藤幸徳」

添付写真
 宮崎繁三郎(PD)



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