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インパール戦の強敵、グルカ兵

勇敢だったグルカ兵。


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  グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称です。19世紀、ネパールとイギリス東インド会社軍との3度にわたる戦争の停戦条約が締結される際に、ネパール山岳民族特有の尚武の気性と白兵戦能力、宗教的な制約が小さい点に目をつけたイギリス東インド会社は、グルカ兵が傭兵として同社の軍に志願することをネパールに認めさせました。山岳民族で勇猛という点では台湾の高砂族と似ているでしょう。グルカ兵は大東亜戦争のインパール作戦で日本軍と交戦しています。

  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に発動されました。このとき日本軍はインド国民軍と行動をともにし、インド国民軍は前線にいる英印軍インド兵の投降を呼びかけました。昭和17年(1942年)のシンガポールの戦いで、インド兵の投降に懲りていたイギリス軍は前面にグルカ兵を配置していました。このため、投降の呼びかけは戦局を左右するほどの効果はあがりませんでした。

  グルカ兵は勇猛ですから、日本軍の戦局打開のための度々の突撃戦法に恐れず立ちはだかり自動小銃を至近距離で連続発射します。インド兵の場合は恐れて逃げてしまうので、イギリス兵はインド兵の足を立ち木に縛り付けていましたが、グルカ兵にはそうする必要がなく、一歩も引かなかったといいます。これで日本軍は被害を拡大しました。

  グルカ兵は勇猛だけでなく、ご主人様(英国人)に忠実でしかも愚直といいます。インパール作戦が中止となり、追撃してくるイギリスの戦車部隊に遭遇し、山中に逃げ込んだ第15師団の栃平主計曹長は次のように記しています。
「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。次の瞬間、担架が萌え始めた。見る間に黒煙が上がり辺は火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

  ご主人様のいいつけで足でまといになる日本軍傷病兵を焼き殺したのです。残酷な命令であっても忠実に守るわけです。
  終戦となりビルマの日本兵は収容所に入れられます。そしてイギリス軍から「収容所の鉄柵に接近すると逃亡の意志ありと見なして射殺す」と通知が出ました。だいたいこういうのは訓示みたいなものですが、グルカ兵はまじめすぎて柵に近寄った日本兵を自動小銃で撃ち殺してしまいます。

  会田雄次(著)「アーロン収容所」ではグルカ兵に戦争中も収容所でもやられたのである復讐をしたことが書かれています。作業場に電気溶接をやるところがあり、そこにグルカ兵を連れ込みます。溶接作業を見てグルカ兵は大いに好奇心を持ち、
「カクネ、カクネ(面白い、面白い)」といって見飽きるまで強烈な閃光をじっと見つめ、しばらくしてぶっ倒れます。これを次の日本兵捕虜作業員にも申し送り、約10日も続けたそうです。さすがにイギリス軍が調査してグルカ兵に見学禁止を言いわたしました。このほかグルカ兵は「疑う」ということを知らないため、日本兵捕虜が「美しい女がいた」とウソをつくと、グルカ兵はそっちのほうに走って探し、帰ってきて「いない」というと、日本兵がさらに「もっとあっちのほうだ」と更にウソをつくと、何度でも探しにいったそうです。会田氏は日本兵を撃ったのはグルカ兵のせいではないのに悪いことをしたな、と書いています。



参考文献
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  歴史通2009.7「神のごとく振舞った英国人が青ざめた」高山正之
参考サイト
  WikiPedia「グルカ兵」

添付画像
  インパール-コヒマ間の路上を進撃する戦車を伴ったグルカ兵(PD)


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