かつて日本は美しかった

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新宿中村屋のボース

中村屋のカレーはこうして生まれた。


S1915



  ラース・ビハーリー・ボース、1886年生まれ、西ベンガル州ブルドワンで生まれました。チャンドラ・ボースとともにインド独立活動を行った人です。

  ボースは1912年、イギリス高官の暗殺未遂で当局から追われ、同志のグプタとともに日本に脱出しました。そして支那の革命家・孫文のもとを訪れ、アジア主義者の巨頭・頭山満に会います。そして内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていきます。
  しかし、日本はイギリスと同盟関係(日英同盟)にあったためイギリスはボースとグプタの日本退去を要求します。日本政府はボースとグプタに5日以内の退去を命じました。退去期限の夜、二人は頭山満のところへ挨拶に行きました。二人の警官がボースとグプタに付いていましたが、頭山は二人を脱出させました。そして新宿中村屋の店主、相馬夫妻が二人を匿ったのです。ここで同店のインド・カリーが誕生し、相馬の愛娘とボースは結婚することになります。これでボースは「中村屋のボース」と呼ばれるようになりました。

  昭和16年(1941年)、日本は対米英開戦に踏み切ります。東條英機首相はインド独立援助を声明します。

  日本軍は破竹の勢いでマレーを進撃すると、イギリス軍の一大隊が退路を絶たれ、孤立していました。その大半はインド人でした。大本営参謀の藤原岩市少佐は一切武器を持たずに大隊を訪れ、投降を勧め、200のインド投降兵の身柄を預かることに成功します。やがてその中にいた中隊長のモハン・シン大尉の主導によってインド国民軍(Indian National Army、略号:INA)創設されました。

  インド兵捕虜と藤原機関の合同食事会。モハン・シンが述べた言葉。
「戦勝軍の日本軍参謀が、投降したばかりの敗残のインド兵捕虜、それも下士官、兵まで加えて、同じ食事でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では夢想だにできなかったことである。(中略) 藤原少佐の、この勝者、敗者をこえた、民族の相違をこえた、温かい催しこそはインド兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の千万言にまさる実証である」

  昭和17年(1942年)5月、タイのバンコクでインド独立連盟が設立され、中村屋のボースが総裁となります。この後、独立連盟とINAは不和があったもののチャンドラ・ボースも加わり、自由インド仮政府を樹立し、米英へ宣戦布告しました。そして日本軍とともにインパール作戦を戦うことになります。

  評論家、日下公人氏は戦後16年たった頃、シンガポールを訪問したとき、街中にある自動車修理工場を立ち止まってみていると、インド人が修理しているのを見かけました。扱っている車はほとんど日本製でした。「これはニッサンだね」というと、「あなたは日本人か、私もかつて日本の兵隊と一緒にインパールまで攻め込んだんだ」と言ってわれもわれも名乗りを上げてきたそうです。
「日本人はブレイブ(brave=勇敢)」とそればかり言って神様のように尊敬していたそうです。

  中村屋のボースは昭和20年(1945年)、日本で客死しました。日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してボースの仕事をねぎらいました。同年6月には、長男の正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死。インドは、日本が連合国に敗北してからちょうど2年後の昭和22年(1947年)8月15日に、イギリスから独立を勝ち取りました。



参考文献
  オークラ出版「世界に愛された日本」『二人のボースとインド独立の理想』坪内隆彦
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(著)
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「なぜ日本は『大東亜戦争』を戦ったのか」田原総一朗(著)

添付画像
  「ラース・ビハリ・ボース氏謝恩の会」(1915年)(PD)
   テーブルの向こう側中央に頭山満、その後ろにラース、両者の手前に犬養毅。

新宿中村屋
  純印度式カリー 誕生秘話 http://www.nakamuraya.co.jp/curry_room/room_01.html


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