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停戦を強く望んでいたのはソ連だった ~ ノモンハン事件

スターリンは日本軍の強さに震え上がった。


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  昭和14年(1939年)5月に勃発した満州とモンゴルの国境紛争「ノモンハン事件」は日本軍の惨敗と言われていましたが、ソ連崩壊後の資料によると実際はソ連軍は大打撃を受けており日本軍の敢闘が浮き彫りになりました。ソ連は外蒙古の支配力を強化し、国境紛争を起こし、日満軍に一撃を与え、西の憂いを無くし、東欧へ進攻する予定でした。モスクワの陸軍駐在武官の土居明夫大佐は6月中旬に関東軍首脳へ
「これは単なる国境紛争ではない」進言しています。

「英仏とソ連が一緒になってドイツと戦う時のために、極東で関東軍が手を出さないよう一度徹底的に叩いておくというのが、スターリンの狙いではないか」

  しかも土居大佐は帰国の途上、シベリアで目撃した棒大なソ連軍の東送を伝え、
「だから関東軍は全軍をあげて戦う準備をすべきだ」進言しています。

  ソ連は日本軍があまりにも強いので顔色を失い、大軍を集結させ、8月20日には大反攻作戦を展開します。そして日本側を驚かせる出来事が発生します。8月23日、独ソ不可侵条約が発表されたのです。スターリンは8月15日にはドイツに停戦の仲介を依頼しており、日本軍との戦闘拡大を食い止めるため、ドイツに譲歩したのです。ところが日本側はソ連が東への進攻を強化するのではないか、と疑念を抱いてしまいました。このあたりが日本外交、情報力の弱さでしょう。

  8月20日からのソ連軍の大攻勢に日本第二十三師団は壊滅状態となりました。そして関東軍は第七師団、第二師団、第四師団、第一師団を動員し、9月上旬大反撃を企図しました。スターリンには日本軍が10個師団を増強するとの情報が入っていました。これは満州有事の際に内地、朝鮮、支那から約10個師団を集めて決戦する、という日本軍の構想がソ連側に漏れていたと思われます。ソ連のボロジェイキン少将は
「日本軍は十個師団を集結中で補給線は日本は有利だった。これはヒットラーの急速な進撃と無関係ではない」と推測し、スターリンは1個師団でも大変なのに10個師団も来られてはと震え上がります。

  8月28日、平沼内閣は日独軍事同盟の締結交渉を進めていましたが独ソ不可侵条約に驚き、
「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を遺して総辞職しました。

  8月31日、大本営からの大陸命が届き、関東軍は大反攻作戦へ向けて沸き立ちます。
  9月1日、ドイツがポーランド進攻を開始。
  9月3日、突然、大本営は関東軍に対して掌を返すような隠忍自重の命を出したのです。そして9月7日に関東軍の植田大将以下が更迭となりました。逆にこの情報をキャッチしたソ連は日本軍の大反撃が始まる前触れと思い、10日にはソ連モトロフ外相が原状回復の条件を東郷茂徳大使に提示しました。
  9月14日、東郷大使は最終案を提示し、これを飲まねば停戦しない、と通告。
  9月15日、ソ連は受諾し停戦となります。

  9月17日、ソ連はポーランドへ侵攻。モスクワの土居大佐はラジオ放送を聴いて腰をぬかしました。ここで初めてノモンハンの停戦を強く望んでいたのはソ連のほうだったということを知ったのです。土居大佐は
「こんなことならもう2,3日粘っていれば・・・まんまと騙された」と述べています。

  日本は情報収集力、情報分析力、外交力において大きく遅れをとっていたのです。歴史を見て反省し、将来に活用するのであれば、こういう点でありましょう。
「ノモンハン戦は意味のない領地の奪い合い」「機械化部隊に歯が立たなかった」という誤った見方をしていたのでは意味のない反省しかできません。



参考文献
 有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
 歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
 毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
 モロトフ(左)とスターリン(右)  AUTH:Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum



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スターリンは日本軍の強さに震え上がった。

まとめwoネタ速neo 2012-06-13 (Wed) 12:53