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太陽の先生と呼ばれた東中佐 ~ ノモンハン事件

日本はナラン・オルシス(太陽の国)と呼ばれていた。


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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。5月11日から6月中旬までを第一次ノモンハン事件といいます。

  5月14日、外蒙古軍による越境があり、満州国軍が撃退しましたが、翌日以降も外蒙古軍が越境攻撃してくるので、第23師団長・小松原中将は東八百蔵中佐を隊長とする捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)を派遣しました。東捜索隊が現地に到着すると外蒙古軍は退却しましたが、東捜索隊が引き揚げるとソ蒙軍は再び越境。21日、山縣大佐率いる歩兵第64連隊に攻撃命令が下り、27日夜半より攻撃にでます。東捜索隊は敵陣後方へ回り込みました。

  28日、山縣連隊は敵第一線陣地を奪い、ハルハ河の橋梁方面に進出しようとしましたが、ハルハ河左岸からソ連軍が砲撃してきて、戦況が進まなくなり、敵陣深く侵入した東捜索隊と連絡がとれなくなりました。

  関東軍参謀の辻政信参謀はノモンハンに到着すると東捜索隊危急を知り、30日、山縣隊の本部へ行きます。しかし、東捜索隊の消息がわかりません。夜間になり山縣連隊が前進し、遂に東隊を見つけました。全滅です。周りにはおびただしい敵戦車の轍痕(てっこん)があり、死体は半数以上は焼かれていました。火炎放射の戦車か死傷者にガソリンをかけて焼いたものでした。

辻参謀
「三人で一人の屍を担げ、手ぶらのものはかえってはならぬ。一つの死体を残しても皇軍の恥だぞ」(※1)

  山縣隊700名は約200の死体を担ぎ陣地へ戻りました。

  東捜索隊29日夕刻に全滅していました。生き残った池田軍医中尉の目撃談では東中佐らは最後19名ほどになり敵に包囲され、突撃攻撃を試みました。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を持って突撃し、榴弾に倒れました。これでソ連軍はビビッて200メートルも退却してしまいました。池田軍医は日没を待って負傷者に後退を命じて離脱しました。

  東中佐の戦死は山縣連隊長が砲隊鏡で目撃しており、東捜索隊の鬼塚軍曹が山縣隊に伝令に来たときにそれを聞いています。鬼塚軍曹は「砲隊鏡で見えるほどのほんの2キロくらいの距離なんです」と語っており、辻参謀が「(山縣)連隊長に東部隊の戦況を聞いたが何もわかっていない」と語っているのは不思議です。生き残った東捜索隊の兵士たちは山縣連隊を呪ったといいます。
  東中佐のことは外蒙古軍(モンゴル軍)の間でも知られていて「太陽の先生(ナラン・バクシ)」と呼ばれていました。日本兵捕虜から聞いたのだと思います。当時、モンゴルは日本のことをナラン・オルシス(太陽の国)と呼んでいたそうです。モンゴル人が日本をどう思っていたか垣間見ることができます。

  平成2年(1990年)にノモンハンの戦場で慰霊が行われ、そのとき東中佐の三女の方が出席しました。同行していた言語学者の田中克彦氏はモンゴル軍の国境哨所長に「あの人がアズマ中佐の娘さんです」と言ったところ、所長は東中佐の娘さんを誘って馬に乗せ、草原を散歩していったそうです。



※1 辻参謀は遺体収容には参加していないという証言がある。

参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
添付画像
  最大の戦闘となったノモンハン事件中のソ連軍(PD)


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まとめtyaiました【太陽の先生と呼ばれた東中佐 ~ ノモンハン事件】

日本はナラン・オルシス(太陽の国)と呼ばれていた。

まとめwoネタ速neo 2012-05-26 (Sat) 20:43


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