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外蒙古の悲劇 ~ ゲンデン首相

ゲンデン首相を襲った悲劇。


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  現在のモンゴル人民共和国と内蒙古自治区は19世紀には清朝の支配を受けていました。1911年に辛亥革命がおき、清朝が滅亡するとハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言します。1924年にモンゴル人民共和国が成立しました。
  昭和2年(1927年)、支那の蒋介石が反共クーデターを起こすと、コミンテルン(共産主義の国際組織)はモンゴル人民共和国と支那を切り離す路線をとり、昭和3年(1928年)、モスクワの指令によって外モンゴルから右派が一層され、昭和5年(1930年)反宗教運動、裕福な牧民からの財産没収、強制集団化、個人商業の禁止政策が採られました。

  昭和7年(1932年)、満州国の建国を見て、外モンゴル民衆は親ソ政策に対して反乱を起こし、スターリンはあわてて政策転換し、経済援助をはじめました。

  同昭和7年、ゲンデンが首相が就任しました。昭和10年(1935年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出し、戦闘を禁止します。そして外モンゴルと満州の国境調整の場であるマンチューリ会議が開かれました。

  ハルハ廟事件の前年、昭和9年(1934年)にソ蒙相互援助秘密協定が結ばれており、スターリンはゲンデン首相に公式化を要求しますが、ゲンデン首相が引き伸ばしたため、スターリンは外モンゴルの副首相のチョイバルサンを使い、日満軍を攻撃(オランホドク事件)し、国境紛争によってソ連軍の外モンゴル駐留を認めるように圧力をかけていきます。ソ連としては満州国は脅威であり、外モンゴルと満州国が手を結ぶのを恐れており、なんとしても外モンゴルを掌握したかったのですが、ゲンデン首相は抵抗します。またスターリンはラマ僧を一掃するよう要求していましたが、ゲンデン首相は仏教に帰依しており、これも抵抗の要素になりました。

  昭和11年(1936年)3月、遂に「ソ蒙間友好条約」「相互援助議定書」が締結されました。ゲンデン首相は解任。国境警備隊は内務省直轄にして親ソ派のチョイバルサンの指揮下になりました。

  ゲンデン首相には有名なエピソードがあります。(モンゴルでは有名らしい)

スターリン
「日本が攻め込んできたら君はどうするつもりなんだ。」
ゲンデン 
「私は祖国を捨てて逃げたりはしない」
スターリン
「坊主どもはどうするんだ」
ゲンデン 
「我国は人口が少ない。ラマ僧は還俗させて働かせるつもりだ」
スターリン
「ゲンデン、君はラマ僧といっしょに社会主義をやろうなんてよく言うね。モンゴルのハーンになろうとでも言うのかい」
ゲンデン 
「グルジア人のスターリンさん、あんたこそロシアのハーンに君臨しているじゃないか。私がモンゴルのハーンになって悪いかね

  このように言い放ってけんかになり、ゲンデンはスターリンのほっぺたを「平手打ち」したうえ、『足蹴にし』、「パイプを取り上げて投げつけた」と言います。

  ゲンデンは昭和11年(1936年)7月に逮捕され、拷問をうけ、自分が日本に雇われスパイになったと自白強要させられ、ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意させられました。この名簿はチョイバルサンに渡され「反ソ反革命日本のスパイ組織参加者」の一斉検挙となります。
  昭和12年(1937年)11月、ゲンデンは処刑されます。これよりノモンハン事件(昭和14年)が起きるまで2万6千の蒙古人が粛清されたといいます。外モンゴルの人口が80万人ですから、人口の約6%です。いかにすさまじい出来事だったかわかるでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元(共著)
  岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
  PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)

添付画像
  19世紀後半のモンゴル人住居の風景(PD)


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