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昭和天皇の全国巡幸

国民に勇気を与えた全国巡幸。


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 昭和20年(1945年)10月 昭和天皇から宮内府次長へ

「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」

  こうして昭和天皇の全国巡幸が始まりました。

 最初に訪れたのは川崎の工場でした。このとき、アメリカの報道陣は戦勝国の横暴を隠そうともせず、陛下を小突き回し、引っ張りまわしもみくちゃにして写真を撮りました。しかし、昭和天皇は嫌な顔ひとつしませんでした。
 
  警護していた日本人
「なんと雄々しいことだろうか。日本の再建のために、今、国民のために耐え難きを耐えていられるのだ」

  川崎の工場の士気は鼓舞され生産性はたいへん上がったといいます。

  静岡県では巡幸反対を唱える共産党員が居ましたが、昭和天皇はまったく気にせずお言葉をかけられたところ、その共産党員は陛下がお帰りの際にお召車すれすれに顔を寄せて「天皇陛下万歳!」と叫んだといいます。

  軽井沢の駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったとき、婚約者を戦争で亡くした女性教師は
「私は天皇陛下万歳といいません。そういう人間ではありません」と言っていました。しかし、お召し列車が目の前を通り、陛下が手を振っておられたとき、その女性教師は「天皇陛下万歳」を叫び号泣していたといいます。
 
  昭和22年(1947年)12月8日 読売新聞 広島行幸
「80名のいたいけな"原爆孤児"たちがお待ちする市外の観光道路で車から降りられた陛下は日夜読経に明け暮らす谷口義春(15)君など4名の法衣の孤児たちをなぐさめられ”明るく勉強なさい”と励まされると子供たちは"ハイ"と元気に返事する。(略)爆心地に近い護国神社あとの広島市奉迎場で5万人の市民の前にお立ちになった。そして陛下が浜井市長の奉迎の言葉に答えられたお言葉は、巡幸中で一番長いものであった。 - "熱心な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う、みなの受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない・・・"

  昭和24年(1949年)5月28日長崎 朝日新聞 原爆病のため面会謝絶中の永井隆博士を長崎で見舞って
「ベッドに伏したままの永井博士にお近づきになった。”どうです病気は?” "ハイ、おかげさまで元気でおります" "どうか早く回復することを祈っています、著書は読みました" このお言葉に感激した博士は"手の動く限り書き続けます”とお答えした」

永井博士が詠んだ歌
「天皇は 神にまさねば私に 病いやせと じかにのたまふ」

永井博士
「天皇陛下は巡礼ですね。形は洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、陛下の御心は、わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました」

  鉄道沿線には人垣ができてお召し列車を見送る風景が各地でみられ、昭和天皇は「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示され、人が居れば窓からお受けになりました。

 昭和天皇の巡幸は強行日程で行われ、九州巡幸では23日間、お立ち寄りの場所は190箇所にのぼり、三池炭鉱のような過酷な場所までお巡りになりました。最後の方には同行記者やカメラマンがのびている状態だったといいます。四国巡幸ではあまりの強行スケジュールにアメリカ人記者は
「この四国旅行のような、ただただ身体を酷使する旅行によく耐え得る政治家を日本でもアメリカでも知らない」と語りました。

  昭和29年(1954年)、北海道巡幸が行われました。長万部、白老、旭川ではアイヌの伝統衣装に身を固めた長老たちが日の丸を振り、陛下をお出迎えしました。長老のひとりの言葉。
 
「どういっていいか涙が出るほどのうれしさで、長生きしていればこそ、天皇、皇后さまにお会いできた。もういつ死んでも本望です」

  昭和62年(1987年)、沖縄訪問をひかえて、昭和天皇は
「戦没者の霊を慰め、長年県民が味わって苦労をねぎらいたい」と仰られていましたが、慢性膵炎で倒れられました。その思いを陛下はこう詠まれました。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

 昭和天皇のご意思は皇太子殿下(今上天皇)に引き継がれ、皇太子殿下が代わって沖縄を訪問し、天皇陛下のおことばを代読されました。

「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿を変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。(中略) 改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々や遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の苦労を心からねぎらいたい」


 昭和天皇は健康が回復すれば沖縄を訪問するご意思でしたが、もはや体調が許さず、念願の一つを果たせないまま昭和64年(1989年)、崩御されました。



参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
 昭和22年10月、山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。中巨摩郡玉幡村(現甲斐市)にて杉浦三郎による案内の様子。(PD)
 



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昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム
http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces

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