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台湾は日本の植民地ではなかった

植民地というご認識を払拭すべき。


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 日本が台湾を統治することになったのは明治28年(1895年)4月17日に締結された下関条約によるものです。
 台湾は1626年、スペインが台北北部および北東部一帯を占領し、植民地にしていました。1642年、オランダがスペインを攻撃し勝利し、今度はオランダの植民地となります。一方、大陸では明国が清国に滅ぼされて、鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン)軍が台湾に逃れてきて、オランダ軍を撃破し、大陸反攻基地として経営を開始しました。
 鄭 成功が死去すると息子の郭経が跡を継ぎますが、1683年、清国に滅ぼされてしまいます。清国は郭王朝を滅ぼすと台湾を一度放棄しますが、オランダの脅威に備えて、消極的支配を行いました。

 消極的支配なので、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐらい悪辣な略奪統治でした。その後、明治7年(1874年)の日本の台湾出兵、明治17年(1884年)のフランス軍上陸があり、清国は台湾の重要性に気がつき、積極的建設政策に転換しましたが、日清戦争によって下関条約が結ばれ、日本の領土となったのです。

 台湾の日本統治が決まると台湾の有力者らは「台湾民主国」を立上げ日本に抵抗します。台北城はは二万の守備。清国兵は5万。日本軍は台湾内の不穏な動きをキャッチし、近衛師団は上陸地点を変更し、陸路で港制圧に向かい、民主国軍と交戦になります。数は劣勢の日本軍ですが、民主国軍は烏合の衆であり、訓練された近衛師団とでは勝負にならず、民主国軍は交戦して敗れると、総統も将軍もさっさと本国へ逃亡してしまいます。そして残された兵士達は台北城内で略奪や放火、婦女暴行を繰り広げることになります。
 早い話「台湾民主国」は支那人が築いた財産を守ろうとしていたというだけで民衆のためのものではなく、民衆は清国兵士たちの暴行を食い止めるべく日本軍へ使者を出し、台北へ手引きします。日本軍は清国兵を掃討し、降伏した兵は大陸へ送還しました。

 こうして日本の台湾統治がスタートするわけですが、日本国内では台湾を「植民地」として扱うか「内地延長」として扱うか議論が活発に行われており、「内地延長型」が統一見解となり、その後の政策、医療制度、国土改造、産業開発、治水、交通整備、教育制度、等々にきちんと表れています。したがって台湾は植民地ではありません。

 
「台湾人と日本精神」の著者、蔡焜燦(さい こんさん)氏(台湾人)によると「公学校(小学校)で習ったことは、台湾は樺太と朝鮮と同様に日本の領土であり、台湾が植民地であるなどという話しを耳にした記憶がない」「”植民地”という言葉は戦後になって出てきたものだと私は理解している」と著書で述べています。おそらくは戦後になって占領軍が日本人に罪の意識を持たせ、白人の植民地支配を非難できないようにする目的があり、「植民地」と言い出したと思われます。朝鮮半島も「植民地だった」という人がいますが、日台韓を分離させ、白人に刃向わないようにさせるデバイド・アンド・ルールも適用したと言えます。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦(著)
参考サイト
 WikiPedia「日本統治時代(台湾)」

添付画像
 高雄州庁(PD)


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H24.10.9 「鄭 成功」の字の誤りを修正。
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