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支那敗残兵の蛮行 ~ 第二次上海事変

支那軍の蛮行が日本軍の仕業としてすりかえて語られているのは要注意。


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 昭和12年(1937年)、8月13日支那便衣隊が日本海軍陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃射撃を浴びせていきました。第二次上海事変の勃発です。支那は対日全面戦争を仕掛けてきたのです。


 支那は十分な装備と弾薬を準備しており、トーチカと呼ばれるコンクリートで固めた陣地を構築し日本軍を誘引しました。そのため日本軍は大苦戦となります。11月5日、上海南方60キロメートルの杭州湾に面した金山衛に日本の第十軍が上陸。上海の街に「日本百万上陸杭州北岸」と縫い上げたアドバルーンがあげられました。これには支那軍が大きく動揺。9日には一気に崩れ、退却を開始します。退却といっても本来は途中に防衛線がいくつかあり、ドイツ軍事顧問団の苦心策「ヒンデンブルク・ライン」で態勢を立て直し、日本軍を迎え撃つことができます。しかし、支那軍は誰もそうすることはありませんでした。3ヶ月にわたる上海の戦いは終結しました。

 支那の兵たちは退却時にはそこらの民家に押し入り、めぼしいものを略奪した上で火を放ちました。日本軍に雨露しのぐ屋根と糧秣を残さないための作戦です。

 支那軍大元帥・蒋介石の日記には以下のように記されています。


「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(11月30日月間総括)

 この支那軍の行為は日本軍にすりかえられて述べられていることが多いので注意が必要です。三光作戦といい、日本軍が「焼き尽くす、殺しつくす、奪いつくす」という三光の作戦を展開したというものです。日本語の「光」に焼く、殺す、奪うという意味はなく、支那語にその付帯意味があります。辞書を引けばすぐわかります。日本軍が作戦名を支那語でつけることはありません。

 犬飼総一郎(第十六師団通信班長・陸軍中尉)

「自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫も29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も支那兵による略奪の跡歴然たるものをこの目で見た。いかにそれが物凄いか、すざまじいものか、全く想像外であった」

 一等兵戦死 松村益ニ(著)昭和13年10月

「『我々は常に第一線にあって進撃した。そして残虐の場面をみた。支那兵はわれとわが同胞をたたきのめすのです』
 僕たちは敵を撃退せしめた。彼等の部隊の宿舎になっていた民家を掃蕩したとき、家の中に支那の婦人が裸体にされて、手足を縛られて死んでいた。婦人は臨月だった。彼女の肉体には残虐のかぎりがつくされていた。彼らはどうして自分のきょうだいを虐殺しなければならないのか。僕たちには解くことのできない謎である。
 家の中は掠奪の嵐に足の踏み場も無い。
 支那の農民が殺されている。素裸に引き剥かれて無造作に転がっている。敗残兵が着物をはいで農民に変装して逃亡するのだ。
 小さい可愛い子供が殺されている。母親が支那兵の悪魔のような手に捕らえられ、はづかしめをうけているのに泣いて抵抗した故なのであろう。
『おれたちの子供がこんな目にあわされたら・・・』」


 シナ軍の蛮行は南京へ続きました。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 小学館「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二(著)

添付写真
 敗走後に首都南京を焦土とする支那の狂気を伝える当時の新聞 日新報道「南京の実相」より


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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00



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