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エルトゥールル号の遭難

トルコとの友好の歴史。


Sphoto_by_sitake


 明治23年(1890年)9月16日深夜、紀伊半島の先端の港町・串本や、その東に浮かぶ大島付近には午後4時半に暴風警報が出され、風雨は暗闇が迫ると共に強さを増していきました。大島の東の端に立つ樫野埼灯台の宿直室に突然、全身ずぶ濡れの大男が倒れこむように入ってきました。全裸で血を流し、明らかに日本人ではないその大男を見て、宿直員は、これは海難事故だと直感しました。


「おい、どうした?どこの国の船だ?仲間はいるのか?何人いるんだ?」


 主任の瀧澤正浄が日本語でいくら問いかけても通じません。万国信号ブックを取り出して見せると、男は震える指先で赤地に三日月と星を染め抜いた旗を指差した。


「この国旗は・・・トルコか!」


 この時、樫野の村民もがけからよじ登ったトルコ人に出会い、遭難現場を確認し、村へ知らせ、大騒ぎとなり生存者の救助を行います。
 遭難した船はトルコの軍艦エルトゥールル号。横浜から神戸に向かう途中に台風に遭い、岩礁にぶつかり船は沈没しました。乗員650名。生存者69名のうち58名が負傷、うち38名は重傷という大惨事でした。
 大島島民あげての看護と治療がはじまります。この事件は9月19日には新聞の号外で報じられ、20日にはドイツの軍艦ウォルフ号が支援に大島に駆けつけます。生存者はウォルフ号に乗せられ、神戸へ移送されます。翌日、天皇陛下の意向をうけて日本の軍艦八重山が大島に到着しますが、一日違いでウォルフ号が出ていっていました。しかし、八重山乗組員と島民とで埋葬式を行いました。


 エルトゥールル号の乗組員は神戸で順調に回復し、10月11日、軍艦比叡と金剛に分譲し、イスタンプールへ向かいます。12月17日にはエジプトのポートサイドに到着。しかし、ダーダネルス海峡はオスマントルコ帝国の船しか通過できないため海峡手前のユクリで乗組員を下船します。
 ところがその直後にトルコ皇帝からダーダネルス海峡の通過許可がおり、イスタンプールへの上陸の許可がおります。比叡と金剛はイスタンプールへ入港、皇帝に謁見し、天皇陛下の親書を贈呈します。イスタンプールの滞在は40日滞在し、明治24年5月10日に日本に帰港します。このとき比叡に「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之が乗船しています。


 このエルトゥールル号の遭難は日本全国で義援金が集められ、遺族に送られています。そして民間レベルでの交流が活発になります。日露戦争のとき、トルコはロシア黒海艦隊の邪魔をして日本を助け、日本連合艦隊がバルチック艦隊を破ったときには熱狂し、この年に生まれた子供に「トーゴー」「ノギ」という名前をつける人が多くいました。


 昭和60年(1985年)3月のフセインの無差別撃墜予告にイランに取り残された日本人をトルコ政府がトルコ航空を使って救出してくれたのは良く知られています。決死のフライトに駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と述べています。ちなみにこのとき、テヘランに取り残されたトルコ人がいます。日本人を優先させたのです。それについて非難するトルコ人は一人もいませんでした。(トルコ人は車でなんとか脱出)


 平成20年(2008年)、「エルトゥールル号が結んだ日本とトルコの友情」をテーマにシンポジウムが開催されました。トルコのセルメット・アタジャンル大使は、日本でエルトゥールル号のエピソードを教科書で紹介するという試みに対し「非常に誇りに思い、嬉しく思っている」とスピーチしています。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『エルトゥールル号遭難とイラン・イラク戦争』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲(一)」司馬遼太郎(著)


添付画像
 和歌山県串本町(紀伊大島)にある「エルトゥールル号遭難慰霊碑」 撮影:Photo by Si-take.



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友好国トルコ http://www.youtube.com/watch?v=WOY2BcsmdpQ



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