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満州は支那の領土ではない

満州と支那は別。チベット、ウイグル、内蒙古も支那とは別。


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 現在、多くの日本人の認識は満州は支那の領地であり過去戦争で日本が侵略したと思っているでしょう。現在の中共(中華人民共和国)は満州史を「東北史」と位置づけて、支那の一部の歴史のように装っていますが、満州が支那に領有されたのは戦後で、それ以前はありません。

 満州は満州民族がいました。清国は満州は満州民族の土地であり侵すべからずとしていました。万里の長城を越えて漢民族が流入しないようにしていました。しかし、北からロシアがやってきて19世紀後半には満州の半分を侵略してしまいます。(ウラジオストックやハバロフスク、アムール川、ゼーヤ川あたりは満州だった)日清戦争以降、清国は満州への漢民族の移民を解禁します。日本は清国と条約によって満州に租借地を得ます。1911年の辛亥革命によって、清国が崩壊したあと満州も支那も軍閥が群雄割拠する内乱状態になりますが、このときも中華民国国民政府の蒋介石などは満州は別の国という立場をとっています。1926年7月から蒋介石は北洋軍閥打倒戦争、いわゆる「北伐」を開始しますが、最終地点は万里の長城です。満洲は張作霖(漢民族)の軍閥が大きな力を持つようになりました。

 言ってみれば日本は清国と条約に基づいて満州に租借地を得ていたのに対し、張作霖ら漢民族の軍閥らは満州民族から見れば外国人であり満州を侵略していたということになります。満州事変は張作霖の息子、張学良軍閥や馬占山軍閥と関東軍の抗争でしたが、満州民族から言えばどれも外国人になります。

 満州と一口に言ってもモンゴルも絡んできます。昭和10年(1935年)、チンギスハーン第30代にあたる徳王(デムチュクドンロブ)は対日連携を正式に決定し、11月末に満州国の首都新京(現・長春)を訪れ、満州国が東部内モンゴルを編入していると抗議しつつ、蒙古建国への軍事・経済援助の約束を関東軍首脳からとりつけています。「満蒙」と呼んでいるのは内蒙古の一部を含んでいるためです。

 この満州の誤解については現在の誤解だけでなく、昭和6年(1931年)の満州事変の頃でも欧米諸国は誤解しており、昭和7年(1932年)の米国務省発表のスチムソンドクトリンでも満州事変を
「以前には存在していたところの南満州における中華民国政府の行政的権威・・・」と述べています。

 アメリカ人ジャーナリストのジョージ・ブロンソン・レーは著書「満州国出現の合理性」の中で
「張作霖の支配する政府は、民衆にたいして苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治をおこなってきたが、搾取のための名目と種類が多く、130以上もの税金を課していたうえに、通貨も奉天省のみならず、吉林省や黒竜江省など各地の軍閥が発行する官銀以外に、実力者の恣意によって乱発されていた」と指摘しています。日本は満州の歴史的背景に加え、こうした満州の民衆の苦しみを国際連盟リットン調査団、そして世界に訴えればよかったのですが失敗し、国際連盟は満州を支那、漢民族のものと誤認してしまいました。

 満州国は昭和7年(1932年)に誕生し、昭和20年、大東亜戦争の日本敗戦とともに消滅しました。その後は国民党政府と共産党政府が満州の土地と遺産を奪い合い、最終的に共産党が勝利しました。満州民族は完全に漢民族の支配下になり、少数民族として生きながらえることになります。平成19年(2007年)には満州語が話せる人は100名ほどの高齢者になってしまったといいます。満州人は次のように言って今でも涙を流すそうです。

「われわれにも自分たちの国があったんだ」



参考文献
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 岩波新書「ノモンハン戦争」田中克彦(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 PHP「世界史の中の満州帝国」宮脇淳子(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
参考サイト
 Wikipedia「満州事変」「ムチュクドンロブ」

添付画像
 清王朝の西太后(PD)


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