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闘将・角田覚冶、テニアンに死す

闘将の最期。


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 昭和19年(1944年)2月。角田覚治中将はテニアン島へ着任。第一航空艦隊司令長官に就任し、マリアナ沖海戦(あ号作戦)を支援することになります。

 テニアンに着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧弱さに激怒します。
「いったい大本営はこの一年間何をしてきたんだ!」。この頃、クエゼリン、ルオット島(マーシャル諸島)の日本軍守備隊は玉砕。トラック島が奇襲攻撃を受けています。

 見敵必戦・角田覚治中将を部下はこう語っています。
「長官は一口で言えば上杉謙信のような人だ。黙っているが、いざとなると大将自ら単騎、敵の本陣に斬り込むといった猛将だよ」

 見敵必戦、索敵機が3群に分かれる敵機動部隊を捉え、参謀たちが航空機温存を唱えるなか、125機全機を発信させ、2群の敵を攻撃しますが、敵1群がテニアンを攻撃。日本軍の攻撃隊は損害を受け、島の施設は破壊されます。この後、連合艦隊からの要請によりパラオ支援で航空機の損失をおい、南方へ航空隊を送り込みながらもグアム、テニアンは米軍の攻撃を受けます。

 6月15日米軍はサイパンへ上陸。テニアンからサイパンは目と鼻の先であり米艦隊を見ながら見敵必戦の角田覚治中将は独断で全航空機の発進を命じます。しかし、グラマンの大編隊とVT信管などの新兵器によりことごとく撃墜され、テニアンの航空戦力は灰燼に帰します。

 一機の航空戦力もなくなってしまった総軍8,500は敵の上陸に備え防御作りに追われます。日本人民間人は1万3500人ほどおり、ほとんどは南洋興発の社員でした。民間人は昼夜をわかず、野戦陣地の構築に協力しました。角田覚治中将は
「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人のように玉砕しなくともいいのですよ」と笑顔で最後の挨拶をして回ります。

 昭和19年7月24日。圧倒的大戦力で米軍がテニアンに上陸してきます。その兵力は海兵隊2個師団。54,000.対する日本軍は緒方敬志大佐の第29師団第50連隊と第43師団第135連隊第1大隊と海軍部隊の約8,500。日本軍は斬りこみ隊を組織し、夜間、壮烈な攻撃を行います。しかし、多勢に無勢。27日には司令部を放棄し、南部のカロリナス洞窟に後退。31日に最後の電報を打ちます。

「今より全軍を率いて突撃せんとす。機密書類の処置完了。是にて連絡を止む」

 このとき大本営から電報が入ります。

清水中佐
「長官、大本営からテニアンを脱出せよとの電報が届いています」

 カロリナス沖に迎えの潜水艦を用意するという。この頃、優秀な人材が皆戦死してしまうので軍部では非常に困っていたようです。また、グアムやテニアンにいたパイロットや技術を持った工兵をなんとか脱出させようとしていました。

角田中将
「もう間に合わんよ」

 8月2日朝、最後の突撃命令が出ました。飛行士の横森直行少尉が出発しようとすると、司令部に呼ばれました。このとき角田中将は階級章をつけていませんでした。

横森少尉
「お先に出発します」

角田中将
「横森、ご苦労だった」

 そして角田中将は2つに割った「オニギリ」の一つを差し出します。最後のお別れに酒でもない、水でもない、「オニギリ」でした。

 そしてその後、角田覚治中将は手榴弾二つをもち「じゃあな」と言って笑顔を残して洞窟から姿を消したと戦史は伝えています。



参考文献
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
   『抗命の罪はこの角田が負う テニアン島で最後まで闘志を失わず』野村敏雄
参考サイト
 WikiPedia「角田覚治」「テニアンの戦い」「マリアナ沖海戦」

添付画像
 テニアンで破壊された日本軍機(昭和19年7月30日 PD)


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