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「各艦、探照灯つけ」闘将・角田覚治、ダッチハーバーへ

角田覚治のこころ。


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 昭和17年(1942年)6月。ミッドウエー作戦の陽動として角田覚治少将率いる第二機動部隊はダッチハーバーを攻撃します。5月3日に竣工したばかり商船の改造空母「隼鷹」を使っての攻撃です。商船のエンジンは速度変換する空母には不便であるばかりでなく、空母の発着関係の諸装置をマスターするには時間がありませんでしたが、1ヶ月でそれをやってのけました。当時の海軍では常識やぶりだったといいます。

 6月4日、この日は悪天候でしたが角田覚治少将は艦載機を発進させます。翌5日、この日も攻撃機を発進させ、やがて薄暮を迎えるころ、艦載機が1機、また1機と帰ってきました。この日も天候が悪く、搭乗員は機を操縦するだけで精一杯でした。角田少将は危険を承知で電波を発信しました。ところが一機の艦上爆撃機が被弾しており、無線の送信はできるものの受信ができない状態に陥っていました。艦上爆撃機が緊急電を打ってきます。

「我、機位を失す。探照灯つけられたし」

 暗い海上で探照灯をつけると敵哨戒機や潜水艦に空母が発見される可能性があり、発信電波だけでも危険であるのに、さらに大変危険な行為になります。一機のために大勢の命を危険にさらすことはできません。

「我、燃料、後五分」

 悲痛な叫びが艦橋に届けられてきます。艦橋は沈黙に閉ざされました。その時、

「各艦、探照灯つけ!」

と角田覚治少将から決然とした命令が発せられます。周りに居た参謀たちは驚いて角田覚治少将を見ます。この時、後に大本営参謀となった奥宮正武少佐は「搭乗員二名の命を救うために母艦を犠牲にされるおつもりですか」と言いたいのをぐっとこらえ、(いいや、これが提督の戦い方であり生き方なのだ)と思い直したそうです。

「唯今より着水自爆す」

 残念なことにこの機はこの打電を最後に消息を絶ちました。角田覚治少将は無言のまま海を見つめていましたが、やがて
 
「搭乗員は若かったのだろうなあ」

奥宮正武少佐
「はい・・・搭乗員は若かったと・・・」

 角田覚治は見敵必戦の闘将だっただけでなく、日本海軍の誰しもが出来なかった航空と艦砲を両立させて戦法を編み出した戦術家でもあり、兵士をとことん愛しかつ慕われた人望の将だったと言えるでしょう。誠の武士です。


参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2008年8月
  『各艦、探照灯つけ 荒天のダッチハーバーで示した部下への思い』秋月達郎
 光人社「提督 角田覚冶の沈黙」横森直行(著)
参考サイト
 WikiPedia「角田覚治」「アリューシャン方面の戦い」


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