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ソ連機械化部隊を撃破 ~ ノモンハン事件

ソ連の機械化に歯が立たなかったというのは誤りだった。


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  昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。5月の戦闘を第一次ノモンハン事件といい、日本側の損失は290名、ソ連側は推定600名でした。ソ連ではフェクレンコ司令官が解任され、ジューコフが司令官となりました。6月から9月を第二次ノモンハン事件といいます。

  ノモンハンの日本軍はソ連の機械化部隊に歯が立たなかったと言われてきましたが、それはウソでした。ソ連機械化部隊は大損害を受けていたのです。

  6月17日、ソ連軍司令官ジューコフは越境禁止命令を解除し、満州国諸点を爆撃。地上軍は満州軍を攻撃。日本軍は6月27日にハルハ河を越えて蒙古領内のタムスク飛行場を爆撃。不拡大方針の大本営は驚き、これより飛行制限するよう命令が発せられます。

  7月2日に日本軍はハルハ河を渡り、ソ連戦車団と大激戦を繰り広げます。ソ連車両の装甲は前面でも11ミリ、側面では6ミリであり、速射砲でしとめ、装甲車などは13ミリ機関銃、重機関銃でしとめることが出来ました。そればかりか、たまたま日本のトラックが戦車に追われたとき、荷台のガソリン缶を落としたら戦車に当たり燃え出したことから、火炎瓶でも軽く炎上することがわかります。そして日本歩兵がガソリンを入れたビンを熱いエンジンにぶつけて炎上させました。戦車はそもそも視界が悪く、ソ連戦車団は走行射撃の技術がないため、火炎瓶攻撃の餌食になりました。

  三輪義男伍長
「日本の速射砲はよく当たりますね。威力があると思いましたよ。撃った弾は全部命中したように思います。パっと火が見えたと思うと黒い煙が上がる。弾が戦車に命中したのが見えますからね。ほとんどやっつけたように思います。」

  前田義夫軍曹
「速射砲は秘密兵器でしたね。正式名は九四式三七対戦車砲と言ったと思いますが、一発づつ発射するものの、射手が熟練すると一分間に30発以上発射できるようになります・・・7月3日、台上の対戦車戦で見事な成果を上げたんです。40台以上のソ連軍戦車を沈めたんです。うちの速射砲中隊ですよ」

  辻政信 ノモンハン秘史
「次々に必中弾が浴びせられ、合計7両を約10分間に炎上させた。10発の弾である・・・約半数をやられた敵は、我が陣地に突入することなく、反転して退却した」

  しかもソ連軍は戦車団の先頭に指揮官が乗っていたため、これをやっつけるとあとは、司令塔を失い、右往左往するので、装甲の薄い側面を見せはじめ、こうなると速射砲の独壇場になったと日本兵士が語っています。最終的にソ連の戦車は800台以上破壊されました。

  ソ連側の記録ではBT戦車などの装甲車両の損失の多くは速射砲や九ニ式七センチ歩兵砲、その他の七五ミリ口径の山砲や野砲による直接照準によるものが主で、その次に日本歩兵・工兵の肉薄攻撃に用いられた地雷や火炎瓶によるものとされています。

  ノモンハン戦の記録についてソ連側の公式発表は誇張や捏造が多いようで、これは良い戦果をあげられないと粛清の対象になる恐怖から戦果を捏造したと考えられます。日本側も情報不足で大敗したと錯覚したようですが、実際にはソ連軍7万7千(23万とも)に対して関東軍3万で互角以上でした。大東亜戦争終戦後も戦前全否定、日本軍否定の中、東京裁判史観を持つ蛸壺歴史学者たちが事実を無視して日本軍大敗論、機械化部隊に歯が立たなかった、と語り継いでいったのでしょう。



参考文献
  有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
  産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
  毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)

添付画像
  安岡支隊の首脳部。右から安岡中将、砲兵隊の将校(後ろ向き、玉田部隊長、吉丸部隊長、山縣部隊長(後ろ向き鉄甲) 歴史街道2011.05より


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