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「日本を攻撃せよ」ドイツ軍事顧問団

日本の侵略はない。支那が仕掛けた戦争の背後にドイツ軍事顧問団。


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 昭和3年(1928年)秋、支那の国民党・蒋介石はドイツのマックス・バウアー大佐を軍事顧問として受け入れます。ドイツは第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によってさまざまな制約が加えられる一方、共産主義革命の危機にあり、マックス・バウアー大佐は軍部内で力を持っていました。大正9年(1920年)、マックス・バウアー大佐中心にクーデターが起こります。しかし、軍部の足並みがそろわず、マックス・バウアー大佐は退役し、ソ連、スペイン、アルゼンチンで軍事顧問として働き、国民党の招きで支那へやってきたのでした。そして後、ヘルマン・クリーベル中佐、ゲオルク・ベッツエル中将といずれもエリートの軍人に引き継がれていきます。

 蒋介石&ドイツ軍事顧問団が日本軍と軍事衝突を最初に起こすのが第一次上海事変でシナ第19路軍3万(この時点では国民党の軍ではない)が日本海軍陸戦隊を攻撃します。これをみて国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍(指揮官・張治中)を上海作戦に加えます。第87師、第88師はドイツの軍事顧問団の調練を受けた軍隊です。この戦闘で支那側は1万を超える戦死者で、日本側は7百余りでしたが、それでもこれまでの支那軍との戦闘と比較すると予想外の損傷でした。支那軍はチェコ製機関銃とドイツ製の手榴弾など圧倒的な破壊力を持つ火器で武装し、士気も旺盛だったのです。
 満州では関東軍が熱河作戦を発動しており、蒋介石は第17軍7万人(ベッツエル中将が指揮)を張り付かせて戦わせますが、このときも日本軍は予想外の苦戦でした。

 ドイツ軍事顧問団、ゲオルク・ベッツエル中将は共産党との戦いである第5次掃共戦でトーチカ建設による包囲作戦を蒋介石に進言し、昭和9年(1934年)10月には共産党を壊滅寸前に陥れます。このころドイツのフォン・ゼークト大将が支那を訪れており、蒋介石に対して意見書を提出しています。そしてこのとき以下も薦めています。

「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策をとること」


 ゼークト大将はドイツ軍事顧問団に就任後、国軍再編成を行い、軍の各教育機関も数多く設立させます。ゼークトの後任はアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将となり、昭和10年(1935年)1月に「支那国防基本方針」を蒋介石に提出します。共産党は既に壊滅状態、次の攻撃目標は日本です。対日戦の準備が進められ、高射砲と防空組織の基礎造成、上海、南京間の陣地構築、南京城の要塞化に力が入れられます。
 ファルケンハウゼン中将は対日開戦を執拗に進言し、昭和11年(1936年)になると
「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手が塞がらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」と進言します。余談ですが、ファルケンハウゼン中将は大使館付武官として日本に居たことがあるだけあり日本語ができ、蒋介石も日本に留学していたので二人は日本語で話しをしていたといいます。
 
 こうした流れの中、西安事件がおき、昭和12年、盧溝橋事件が勃発し、そして第二次上海事変が勃発し、ドイツ軍事顧問団が日本軍殲滅のためにつくりあげられた陣地へ日本軍が誘導されるかのごとく引き込まれていったのでした。日本は条約に基づいて軍隊を駐留して、租界に暮らす日本人居留民を保護していただけです。侵略の意図も何もありません。



参考文献
 小学館「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL別冊10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
参考サイト
 WikiPedia「第一次上海事変」

添付画像
 アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン 1911年名古屋滞在時代(PD)


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