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李方子妃殿下

語られていない昭和。


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 大正9年(1920年)皇族梨本宮守正王と伊都子妃の第一王女として生まれた方子(まさこ)女王は李氏朝鮮26代高宗の第四王子、李垠(イ・ウン)殿下とご結婚されました。日韓併合後10年、政治的な意図の結婚ですが、日本の考え方が良く表れています。日韓併合が白人等の植民地支配と同列だとすると皇族から嫁がせるなど考えられません。例えば英国が王室からインド王朝に嫁がせるなどと絶対に有り得ないわけです。でも日本は異なり、満州国の皇帝溥儀殿下の弟、溥傑殿下には流転の王妃で知られている嵯峨侯爵のご令嬢、浩様が嫁がれています。八紘一宇という同胞として見る心があったのです。

 方子女王は嫁ぎ先をなんと新聞で知ったのだそうです。
「世間では親とか家とかのために結婚することは珍しくなく、本人の意思が重んじられないのは普通のこと。皇族はさらに自由がないとはいえ、せめて新聞に出る前に知らせて覚悟を決め、『お受けします』ときっぱり申し上げたかった」
と母親の伊都子妃に申し上げたそうです。

 正式に父守正殿下から婚約を告げられたとき、
「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」
と答えられたそうです。

 この方子女王の返事には母の伊都子妃殿下は毅然として映ったものの、それがゆえ、いっそう心を痛まれたと言います。
 方子女王はこのときまだ学習院の学生で丁度夏休みのことでした。2学期が始まった初登校の日、髪は韓国式に結い昂然(こうぜん)として登校します。その姿に学友たちは覚悟を感じ、圧倒され、感心したと言います。

 お相手の李垠殿下は明治天皇がそれはそれは、おかわいがりになった方で、明治天皇からの贈り物だけでも尋常なものではありませんでした。明治天皇の愛情をふんだんに受けて育った李垠殿下は口数が少ない方でしたが、結婚後、方子妃が帰宅する李垠殿下を青いチマチョゴリで出迎えると
「よく似合いますよ」と応えたといいます。

 昭和20年(1945年)の敗戦後、方子妃殿下は皇族から除籍されます。その後、李垠殿下の死を乗り越え、韓国で福祉事業に打ち込みます。

「チョッパリ(日本人の蔑称)が寄付なんて図々しい」
「よその国で何を始めようというのだ」
「おとなしく飼い殺しされていればいいのに」


 こういった風当たりにも負けず、障害を持つ人たちの支援活動を続けます。62歳から87歳で亡くなるまで、方子様の四半世紀は福祉一色でした。知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立し、昭和56年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与されました。

 平成元年四月三十日永眠。もうひとつの昭和の終わりと言われています。韓国では準国葬の扱いで、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)が追贈されました。

 李方子妃殿下は韓国では尊敬される女性のベスト5に常に名を連ねるそうです。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 ワック出版「歴史通」2009.7月号『軍人は戦争をしたくない』中條高徳/田母神俊雄
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
参考サイト
 Wikipedia「李方子」「高宗 (朝鮮王)」「李垠」「嵯峨浩」

添付画像
 方子女王 1918年17歳の頃 (PD)


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