かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

硫黄島決戦

決死の敢闘、硫黄島玉砕。


S


 昭和20年(1945年)2月19日、米軍が硫黄島に上陸します。よく、「沖縄は日本唯一の地上戦」といわれますが、これは誤りです。テレビでもよく間違ったまま報道されます。もう少し言うと南サハリンや千島列島でも戦闘があります。日本領という定義だとペリリュー島も該当するでしょう。


 小笠原方面最高指揮官・栗林忠道中将は昭和19年(1944年)5月に父島へ赴任し、米軍は硫黄島に来ると予見して、全長28キロに及ぶ地下陣地構築を指示します。サイパンの水際作戦は艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えたからです。地下陣地の有効性はペリリューで実証されました。


 19日、米軍は上陸したものの一発の銃弾も飛んでこないのを不思議に思いました。島南部の飛行場占拠を目指し進みます。上陸地点の海岸が兵員と物資、弾薬でいっぱいになった午前10時頃、遂に日本軍の隠蔽陣地から猛射を浴びます。海岸では塹壕も掘れず米軍の死傷者は続出しました。進めばいつの間にかどこからともなく猛射を浴びます。ロケット弾が「ヒュー」という音を立てて飛んできて米兵の四股はバラバラになって吹き飛びました。あまりの惨状に発狂する米兵が続出したといいます。栗林戦法は恐ろしい程の効果を発揮しました。米軍は平文で電報を打ちます。

「われわれはかつて見たこともない精強な日本軍に遭遇し、1ヤード、1ヤード血の進撃を続けている。病院船を回航せよ、病院船を回航せよ」


 21日、木更津からは神風特攻隊「第二御楯隊」が組織されます。


 定森中尉
「敵艦に体当たりする一瞬は二百七十分の一秒ぐらいだという。敵艦の二百メートル前からが二秒、自分は何とか笑って突っ込めそうだ。単機で巨艦上の敵兵一千以上に挑むのは男冥利につきますわ」


 第二御楯隊は空母サラトガ、護衛空母ビスマルク・シーに突入。サラトガは大破戦場離脱、ビスマルク・シーは轟沈。護衛空母ルンガ・ポイントほか輸送船らも大火災を起こします。これに硫黄島の守備隊が呼応して米砲兵陣地を猛射し、夜間には米爆薬庫を襲撃し爆破に成功しました。硫黄島の兵士たちは息を飲んで特攻を見つめていました。


「きたぞ。俺たちのために死んでくれるんだ」


南海岸のほうから軍歌が高唱されます。全滅を待つばかりの陸軍残存部隊高唱しているのです。(歩兵の本領)


 万朶(ばんだ)の桜か襟の色
 花は吉野に嵐吹く
 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
 散兵戔(さんぺいせん)の花と散れ


軍歌は次第に島の北にも広がっていき、全島を揺さぶる大合唱となっていきました。


 栗林戦法は米軍に大打撃を与えましたが、日本軍も次第に戦力を消耗していき、翌月の3月17日「帝国海軍万歳、勝利を確信す」の電文が海軍の最期になります。3月18日には栗林中将から最期の電文が大本営に入電されます。
 3月16日、米軍は硫黄島の占領を正式に発表。「26日と9時間の戦いで海兵隊戦死傷者24,127人、その歴史168年で最も厳しかった」


 3月26日、栗林中将、市丸少将らは最期の突撃を敢行。この奇襲は成功し、米軍の戦闘機整備隊と工兵大隊を殺傷し、建設大隊や野戦病院、米軍トラック30両を爆破炎上させました。結局斬込隊262名が戦死。翌27日までに栗林中将を初め陸海軍の司令官と幕僚は自決して果てました。


「硫黄島」を書いたビル・D・ロス
「硫黄島は集団の勇気および個人の勇気が問われたランドマーク(画期的事件)であった。その戦いは、人類がおそらく二度と目撃するとは思えないほど強烈なものであった」



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
 新潮文庫「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯久美子(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」


添付画像
 硫黄島戦闘の様子(米軍撮影 PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。



硫黄島決戦 ~暁に祈る~
http://www.youtube.com/watch?v=LSB2JmV5r9s


スポンサーサイト

PageTop

ブラック・デス・アイランド ~ 硫黄島

硫黄島の戦い。


Sa_group_of_f6fs_attacking_in_suppo


 昭和20年(1945年)2月19日 ~ 3月26日、硫黄島で日米死闘が繰り広げられ、日本軍は玉砕しました。日本側戦死 17,845~18,375 (軍属82を含む)、米側戦死 6,821 戦傷 21,865。米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのんだといいます。


 昭和19年(1944年)秋になるとマリアナが陥落したせいで、硫黄島は最前線となり、将兵も「任地硫黄島」といわれただけで、顔から血が引くようになっていました。


 硫黄島の戦いは過酷な戦闘がよく言われていますが、米軍上陸前からさながら地獄の様相でした。まず硫黄島には水がない。雨以外の飲料水はゼロです。そこに二万の将兵がいるわけです。50メートルほっても水は出てきません。海岸近くを掘ると硫黄混じりの塩水が出て来て炊事はこの水で行いました。地下壕を掘ると中は40度から50度の温度になります。さらに米上陸前からも米軍機や米潜水艦の攻撃によって本土からの輸送も困難になってきて、食料も不足し、度重なる空襲の恐怖も加わり、発狂するもの、自殺するもの、逃亡するものが現われました。中には自分の銃で自分の足を撃ち、内地に送還してもらおうとするものもいて、「敵前従軍免脱」として銃殺刑になったものもいます。


 米軍が上陸してくるほんの10日ほど前の昭和20年(1945年)2月10日、根本正良少尉らの一式陸攻隊は硫黄島へ緊急強行輸送を行います。硫黄島に着陸し、荷物を下ろすと何気なしに折り詰め弁当を3/4食べて残りをすてると、滑走路の補修工事をしていた現地兵が、それを拾い上げ、飯粒を一粒一粒集めはじめました。根本少尉はそれをみて愕然とします。そして機内に戻ってありったけの帰路のための弁当をかき集めて現地の兵士たちに差し出しました。兵士は弁当を将校に渡すと、将校は「俺はいい。皆でいただけ」といい、それを見ていた根本少尉の眼に涙がにじみました。


 硫黄島へ食料を運んだ輸送艦に荷揚げ作業のために現地の兵士が艦上にあがってきたとき、船の乗組員は思わず息をのみます。どの現地兵士も真っ黒で皮膚につやが無く、手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていたからです。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていてました。船の乗組員は「火星人だ。まさしく人間ではない。火星人だ」と思ったそうです。


 2月11日、11万の大兵力を満載した486隻の米大艦隊はサイパンに集結していました。13日、米機動部隊が北上。14日硫黄島作戦牽制のため本土を直撃する別働隊が北上。日本側は米軍は沖縄に来ると予想していました。16日になって硫黄島に来ることを知ります。
 硫黄島の兵士たちは妻子の写真を焼き払い、決戦に備えてました。16日午前7時、米艦隊は硫黄島に向け、いっせいに砲門を開きます。17日午前10時半頃砲撃が止まり、米駆逐艦と大型砲艦艇約20隻海岸に急進してきます。島の南端にある摺鉢山(すりばちやま)砲台は米の集中砲爆撃で崩壊寸前となっていました。「敵を揚げて叩く」栗林戦法を守っていたのでは自滅の恐れがあり、一矢報いることを決断します。健在な砲を米艦艇に向け砲撃を開始。米艦艇は無数の命中弾を受け、火を吹き、沈み、乗組員多数が吹っ飛びました。


 17日夕刻から続々と米船団は集結します。硫黄島は南の島だというのにさんご礁の砂浜も緑の椰子もなく、異様な形の摺鉢山と低く黒い断崖と砂浜が続いているだけの島です。島へ砲撃すると島から吹き上がるのは茶褐色の土煙だけでした。上陸を前にした米兵はこう言いました。


  ブラック・デス・アイランド



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫 「硫黄島玉砕」多田実(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」


添付画像
  硫黄島地上作戦を支援する米F6Fヘルキャット(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。



実録 硫黄島玉砕
http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY


PageTop

近衛上奏

共産主義を警戒していた近衛文麿。


S_3


 昭和20年(1945年)1月9日、米軍はルソンに上陸。2月11日、連合国によるヤルタ会談が行われ、ヤルタ密約が取り決められソ連の参戦が決定します。(日ソ中立条約の一方的破棄) 日本は知りません。このヤルタ密約の発表は1年後に行われています。


 2月19日、硫黄島に米軍が上陸。


 2月に入ってから重臣たちが昭和天皇にそれぞれ拝謁を行っています。7日に平沼騏一郎、9日に広田弘毅、14日に近衛文麿、以降、若槻礼次郎、岡田啓介、東條英機と続いています。近衛文麿は3年ぶりの昭和天皇への謁見でした。
 近衛は昭和天皇に「近頃お目にかかれませんでしたが、いかがでいらっしゃいますか」と言うと玉座の前にある椅子の前まで進みます。こうした行為は普通の臣下のものには出来ない行為で、近衛家という「五摂家」ならではであり、近衛はどっかりと椅子に腰を下ろしました。昭和天皇は「近衛はいかがか」と声をかけると、近衛は「恐れ入ります。お陰様で元気にしております」と答えました。そして起立すると、モーニングのポケットから和紙を取り出し読み上げます。


「敗戦は遺憾ながら最早(もはや)必死なりと候。
 以下、この前提の下に申し述べ候。
 敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん 小さな傷のこと)たるべきも、英米の興論は今日までのところ、国体の変更とまでは進みいらず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)したがって敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こるであるべき共産革命に候」

「つらつら思うに我が国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於いては、ソ連の異常なる進出に御座候」「特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有・・・」


 近衛文麿は勝利の見込みの無い戦争は一刻も早くやめ、共産主義革命に備えるべきとしています。これは戦況と内外政治情勢をみた的確な判断といえますが、米国は講和に応じる気はさらさらないこと、陸軍の動揺など重要な部分が欠けています。昭和天皇は近衛文麿の上奏にある程度同調されるものの、陸軍の動揺を考慮して「もう一度戦火を挙げた上でないと、話はなかなか難しいと思う」と述べられています。近衛は「そのような戦果が挙げられるとはとても思えません」と述べます。ここで陸軍の動揺を抑える元帥にすべき人物として、阿南惟幾(あなみ これちか)大将の名前があがりました。


 この後、近衛上奏文がもとで吉田茂が逮捕されています。上奏文の準備は吉田らのグループが行い、近衛を説得したものでした。近衛文麿も結構危ない橋を渡ったといえます。


 このほか広田弘毅はソ連との戦争を回避するよう上奏しており、東條英機は断固たる抗戦論を述べます。梅津参謀総長は台湾に敵を誘導して一撃する論を上奏しています。


 こうした近衛文麿の動きは評価する向きもありますが、どうもこの人の言動はふらふらしており、終戦直後に昭和天皇の責任を口にしたり、東條英機の責任を強調したり、マッカーサーと二度会見し、憲法改正に乗り出したり、ということを行っています。そして反共の近衛はGHQ共産主義者のターゲットになり、戦犯指名され逮捕状がでると出頭を拒否して自殺しました。昭和天皇は近衛文麿の自殺の報を聞き、たった一言「近衛は弱いね」とおっしゃったといいます。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 「昭和天皇論」小林よしのり(著)


添付画像
 近衛文麿(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


昭和宰相列伝2 近衛文麿他 (1937-1941)
http://www.youtube.com/watch?v=74h-Pvya1Ow


PageTop

捷一号作戦

海軍は戦争する気がなかった?


S_2


 捷一号作戦は昭和19年(1944年)10月23日から同25日にかけて米軍のレイテ上陸を阻止する日本軍の作戦名です。おとり作戦とよく言われますが、日本海軍の機動部隊(小沢部隊)が米機動部隊を牽制し、戦艦を中心とした水上砲撃部隊(栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊)を米軍上陸地点に送り込み、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃して米のフィリピン奪還を頓挫させる作戦です。


 10月23日、戦艦大和、戦艦武蔵を擁する栗田艦隊は米潜水艦の魚雷攻撃を受け、旗艦の愛宕が沈没。このため指揮システムを新たに構築しなければならず、通信不備の原因となります。
  10月24日、シブヤン海に入った栗田艦隊は米艦載機延べ246機の攻撃を受け、戦艦武蔵は沈没。栗田艦隊はレイテ突入を断念し、反転します。しかし、連合艦隊司令部から激励電文が飛び、また反転してレイテへ向かいます。


 おとりとなった小沢機動部隊は米機動部隊(ハルゼー艦隊)を発見し、少ない艦載機で攻撃を開始。ハルゼー米機動部隊はおとりに食いついてきます。しかし、小沢艦隊の旗艦・瑞鶴の通信設備に不具合があり、攻撃機発進の電報は栗田艦隊にも連合艦隊司令部にも打電できませんでした。栗田艦隊はおとり作戦がうまくいっていることを知ることがでなかったのです。


 10月25日未明、西村/志摩艦隊はレイテ湾へ突入し、オンデンドルフ艦隊に迎撃され、ほぼ全滅しました。(スリガオ海峡海戦)


 栗田艦隊は25日夜明けにサマール島沖に進出し、米護衛空母艦隊(スプレイグ艦隊)を発見。米艦隊は速力が18ノットで逃げ切れることができず、全滅は時間の問題でした。戦艦大和、長門、金剛、榛名が護衛空母艦隊を蹴散らした後、レイテに揚陸中の米輸送船団約80隻を撃滅する予定でした。しかし、栗田艦隊は護衛空母1隻と駆逐艦3隻を撃沈したところで反転北上。謎の大反転といわれるものです。この後、主砲射撃指揮所旋回手は敵主力艦(テネシー、カリフォルニア、ペンシルバニア)を発見し、主砲射撃準備までできていました。しかし、艦橋からは何の指令も無く、無言だったといいます。なぜレイテに突入せず、反転したのか?栗田長官は昭和52年(1977年)、亡くなるまで沈黙を守りました。


 この戦闘ではちょっとしたエピソードがあり、米駆逐艦ジョンストンは総員退艦して海上に投げ出されたとき、迫り来る日本の駆逐艦を見て、機銃掃射されると思い、もうこれまでと覚悟したそうです。しかし、振ってきたのは缶詰などの食糧と水であり、艦橋には不動の姿勢で立つ艦長が沈み行くジョンストンに向かって敬礼していたといいます。


 栗田艦隊はレイテの米輸送船団を攻撃することなく、米第7艦隊と決戦することもなく、レイテから消えていきました。栗田艦隊がレイテに突入していても日本の降伏が遅れただけだったという意見もありますが、数日後の米大統領選に影響を与えたかもしれず、戦争が長引けば厭戦気分、または共産主義の脅威の台頭など情勢を変える材料もありました。


 結局、連合艦隊は戦力を集中させて総力で米軍を攻撃したことは一度もありませんでした。航空戦力と海上部隊を効果的に連携させて攻撃したことも一度もありませんでした。ガダルカナルでもミッドウェーでも戦艦大和を使うことはありませんでした。これは「温存艦隊」といって戦力を維持して敵に脅威を与え続け敵の侵攻を遅らせるという考えがあったのかもしれません。しかし、戦力を逐次投入していた結果、レイテにおいてその機能さえも無くしてしまいました。



参考文献
 「歴史街道」2009.9『マッカーサーが震えた日』吉田一彦
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著) / 茂木弘道(訳)
 ハルキ文庫「男たちの大和」辺見じゅん(著)
 WAC「『太平洋戦争』こう戦えば・・・」三野正洋(著)
参考サイト
  WikiPedia「レイテ沖海戦」


添付画像
 アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る(駆逐艦「磯風」から撮影)(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

小磯内閣誕生

小磯内閣は戦争を終わらせることができなかった。


S


 昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。東條内閣は崩壊し、小磯内閣が誕生しました。日本は条件付降伏をアメリカに打診し、アメリカでも日本へ降伏勧告を行う案が持ち上がりましたが、ルーズベルト大統領は拒否しました。
 そして戦局は好転せず、9月15日に米軍はペリリュー島へ上陸。小磯内閣は何ごとも動きが遅く、「木炭自動車」と揶揄されます。昭和天皇はこう回想されています。


「この内閣は私の予想通り、良くなかった。改造問題にしても、側から言われると直ぐ、ぐらつく。云う事が信用できない。その代わり小磯は私が忠告すると直ぐ云う事を聞く。それでいて側から云われると直ぐ、ぐらつく。つまり肚(はら)もなく自信もない。その為しばしば米内を煩わせて小磯に忠告した」


 この小磯内閣は小磯國昭の政治基盤が弱いことから近衛文麿の提案によって米内光政との連立内閣という形になっています。陸相に東條英機の推す杉山元が陸相となっていることから、近衛文麿に何か考えがあったものと思われます。依然として東條英機の影響力は残っており、部下だったものに対して「小磯は3ヶ月もすればつぶれるから、自分が帰ってくるまでがんばれ」と励ましていることが周囲に伝わり、近衛文麿、鳩山一郎、細川護貞、松野鶴平ら、反東條勢力は警戒を強めています。


 そしてついに米軍はレイテにやってきます。レイテで決戦し、一撃を与えてから講和への道筋をつけようとしましたが、陸海軍意見が一致せず、陸軍内でも山下泰文大将はルソン決戦を主張し、寺内南方総司令官と意見があいません。結局、陛下の御意志ということで、レイテで戦うことになりましたが、連合艦隊はレイテに突入せず、残念な結果に終わってしまいました。


 講和への道筋がなんらたたないまま昭和19年(1944年)は暮れていきますが、以前『新・平成日本のよふけ』という番組に元大本営作戦参謀の瀬島龍三氏が出演しており、昭和19年のクリスマスにモスクワへいくため東京を発っています。youtubeにも番組録画がアップされています。


瀬島龍三談
「モスクワについたのは1月19日でした」
「大使に戦局の実体の説明をして・・・」


 番組はここで一旦切って編集されています。5日滞在したといいますから、何かほかにも活動していたのでしょうが分かりません。何をしてきたのか?指示したのは誰か?梅津美治郎か?
 このとき瀬島氏はソ連がドイツにいた兵力を東、満州方面へ転戦させているのを目撃し、百個師団を満州に集めるとして、昭和20年(1945年)8月の後半から9月が極めて危ない、と判断したと述べています。8月8日にソ連は日ソ不可侵条約を破り満州、樺太、千島列島へ攻め込んできたわけですから、後世の我々からすれば「もっと早くなんとかできなかったのか」と思うところです。


 昭和20年(1945年)3月、支那重慶国民政府の密命を帯びて来日した繆斌(ぼく ひん/みょう ひん/びゅう ひん)は小磯内閣に日支単独の和平交渉を提案しました。(繆斌工作) 小磯国昭首相はこの提案に飛びつきましたが、繆斌は蒋介石の親書を持っておらず、信用できない、と反対の声が強く、それでも小磯国昭は繆を通じての交渉にこだわり続け、遂には行き詰まり、4月7日、内閣総辞職となりました。既に沖縄には米軍が上陸していました。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 光人社「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也(著)
参考サイト
  WikiPedia「ペリリューの戦い」「小磯内閣」


添付画像
  小磯内閣(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第6回 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=4q98IHjCgPw


PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。