かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

百人斬りというウソ

嘘は明白。


S19371213




「ちょっと待てよ、」


 これは昭和46年(1971年)11月5日「朝日新聞」に掲載された本多勝一「中国の旅」に南京事件における「競う二人の少尉」の百人斬りのくだりについて、ノンフィクション作家の鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」という著の最初に書いた言葉です。

 百人斬りとういのは二人の日本陸軍将校に、ある上官が殺人ゲームをけしかけたというもので、南京郊外の句容から湯山までの数十キロの間に百人のシナ人を先に殺した方に賞を出そう・・・という話です。これが真の話のように朝日新聞が書いており、鈴木氏でなくても誰でも「ちょっと待てよ」といいたくなるような話です。ドイツ式の最新装備の支那軍に日本刀で立ち向かうわけですから。

 この話は昭和12年(1937年)11月30日の朝日新聞で、向井少尉と野田少尉の百人斬り競争の記事が載った事から始まっています。もともとは戦闘中の話だったのが伝えられていくうちに平時の話であるとか上官命令があったとか、三ラウンド繰り返されたとか、どんどん拡張していきました。この元の記事は浅海一男記者が書いたものですが、浅海記者は自身が取材したものではなく、光本記者が取材したものを載せたことになっています。

 東京日々新聞 佐藤振寿カメラマンの回想
「私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田のほうは当番兵が向井が斬った人数を数え、野田のほうは向井の部下が数えると(浅海記者)が言っていました。よく聞けば野田は大隊副官だから、支那兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです」

 しかし、向井少尉と野田少尉は南京裁判で有罪となり処刑されてしまいます。向井少尉は戦後、養子になっており、姓が変わっていたため、警察が向井少尉を捜しあてたとき「姓も違うし、もし、本人でないなら、そういってくれればいい」と暗に勧めましたが、向井少尉は「僕は悪いことはしていないから出頭します」と言って出頭してしまいます。
 裁判で浅海記者が「ウソでした」と証言すればよかったのですが、浅海氏は「向井、野田両氏より聞き取って記事にした。現場は見ていない」「両氏の行為は住民、捕虜に対する残虐行為ではない」と肝心なことを証言しなかったため「反証を提出できなかった」として死刑となりました。

 南京軍事裁判向井敏明他判決主文
「向井敏明・野田石(毅)・田中軍吉は、戦争中捕虜および非戦闘員に共同で連続して虐殺を行った。よって各人、死刑に処すものとする」

 百人斬りについては本多氏、山本七平氏らが論争をしましたが、本多氏は「捕虜の据え物斬りを競争したのだ」と何の証拠もなく主張をずらしました。
 平成15年(2003年)、野田・向井の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損で朝日、本多氏らを訴えましたが、裁判所は「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない」として違法性はなく、原告の主張を棄却しました。どう見ても一見して明白に虚偽です。おかしな裁判です。




参考文献
 WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
 小学館「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
  青木書店「南京事件資料集 中国関係史料編」南京事件調査研究会(編訳)
参考サイト
 WikiPedia「百人斬り競争」

添付画像
 1937年12月13日東京日日新聞(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


 

スポンサーサイト

PageTop

南京で海軍は支那人から感謝された

大虐殺があったのなら感謝されない。


S19371218


 昭和12年(1937年)の支那事変南京戦では海軍も参加していました。あまり知られていないかもしれません。海軍第11戦隊が揚子江を上り、12月13日には南京に到着しています。陸地から攻撃してくる支那軍に砲撃を加え、揚子江上を敗走する支那軍の舟艇を銃撃しています。


 砲艦勢多艦長 寺崎隆司少佐
「13日の午後3時15分です。中興碼頭には日本陸軍が来ていまして日の丸を振っていました。南京に着いたら陸軍と連絡せよと司令官から命令されていましたので、中興碼頭に向かうと保津に信号しましたら先頭の保津がすぐに中興碼頭に向かったので、勢多が先頭になり、さらに先の下関桟橋に向かいました。
 下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機銃で掃射して近づきました」
(ここまでにジャンクや筏の支那兵に遭遇している)


 寺崎隆司少佐は翌年の7月まで南京にいましたが、もちろん南京虐殺など見ておりません。


 砲艦勢多 次席大尉・関口鉱造 15日の南京偵察
「星条旗を掲げている建物(鼓楼病院)をのぞいたところ、年配の米国人(発音で米国人とすぐ判りました)が出てきたので城内の様子を訊ねました。この人がフィッチ氏であったのでしょう・・・彼の話を要約すると『城内(難民区?)は完全に非武装化され難民が溢れている。しかし、便衣に姿をかえた支那兵が潜入していることは事実である。難民の処理、治安の維持については米・英など第三国が斡旋して日本軍当局と交渉中である』・・・」
「城内(難民区)は女子供でゴッタ返していたが、若い男の姿はあまり見かけませんでした。時折り、窓越しに険悪な眼で注視している男を見かけましたが、便衣兵らしく思われました」
「『虐殺』などという事件は、艦長以下全乗組員とも目撃しておりません」


 南京陥落後、海軍は南京下関から1.8キロ離れた紅卍字会の保国寺難民区(難民と市民二万余り)に対して食料や被服を給与しています。そして敗残兵の掠奪から市民を守っていました。これに尽力したのが土井中佐で、救援物資が到着したとき、市民と難民は「南京下関平和街」の横断幕をはり爆竹をあげ、日の丸を掲げ、歓呼して迎えています。土井中佐に紅卍字会から感謝状が送られました。


 紅卍字会 陳漢森の礼状
「・・・閣下の軍艦は江浜府に停泊する際、閣下は民衆が餓えている状況を察せられ、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また道路の整備と橋架けを命ぜられ、且つ自らご指導に当たられました。・・・」


 土井申二中佐
「私は第三艦隊艦隊司令部にいき、人道上、宝塔橋街をそのままにすることができない、といいました。すると長谷川清司令長官は宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料をくださいました。
(中略)
 平和街が落ち着いた頃、比良(砲艦)は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭を離れました。陳漢森(紅卍字会の代表者)はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感謝したものと思います」


 南京で30万人を虐殺するような日本軍に救援物資をくれただけで感謝してずっと手紙のやりとりをするはずがありません。日本軍は武士道の精神で行動していました。もちろん陸軍も同じで、脇坂部隊(歩兵36連隊)は13日夜、敵の戦死体をねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔いました。18日には陸海軍合同で慰霊祭を行っています。



参考文献
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 偕行社編「証言による南京戦史」


添付写真
 中山門内故宮飛行場戦没勇士慰霊祭における海軍陸戦隊の敬礼(1937年12月18日)(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

南京の国際委員会の実態は「反日」だった

国際委員会は中立ではなかった。


S121217


 昭和12年(1937年)8月の第二次上海事変は支那軍が崩れたことにより、南京への追撃戦へ移りました。11月、南京で国際委員会(ラーベ委員長)というのが作られ、中立地帯が作られます(安全区)。ここは非武装中立地帯ですが、実際は軍事施設があり、国際委員会は蒋介石に軍事施設を撤退するよう求めますが、守られず、日本軍も非武装地帯としては認めませんでした。ですが、松井軍司令官は攻撃しないように厳命し、実際に攻撃は行わず(誤って飛び込んでしまった砲弾はある)、12月13日南京は陥落しました。


 ラーベ委員長 第一号文書 12月14日
「拝啓 貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります」


 安全区に女性子供を含む民間人は避難しており、南京陥落後も入り口には日本軍の歩哨が立ち無用のものの出入りを禁止しています。南京で民間人が大量虐殺されたなどということは全くありません。


 ところが、ラーベ委員長は支那軍の将校を匿っていました。これは本来問題です。


 ラーベ日記 12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」


龍と周は支那軍の大佐です。安全区のラーベ邸に匿ったのです。安全区は中立地帯ではなかったということです。


 同じく国際委員会のメンバーであるフィッチ師も支那兵を匿っていました。ラーベの裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員でフィッチは妻が蒋介石夫人と親友です。このほかにも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトンズラし、国際委員会の外国人が匿っていたわけです。国際委員会は「反日」であり、安全区は支那軍便衣隊の隠れ家になっていたのです。


 これらの潜伏した支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。委員のベイツ教授は、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後に支那兵が「ならず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていたものもいます。


 大阪朝日新聞 2月27日
皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」


 チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
 馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」


 国際委員会は日本兵の非行の話を日本側の外交官補の福田篤泰に訴えをいれますが、なんら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう言っています。


「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
『いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている』等。その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人がぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった」


 これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されています。しかし検証したものはありません(国際委員会書記長スマイス博士証言)。仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い話しです。そしてこの文書は支那国民党の宣伝本であるティンパーリーの「戦争とは何か」にも使われました。これらは支那人に金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったものや隠れている支那軍の便衣隊の仕業を日本軍の仕業にすり替えたものでしょう。国際委員会の実態は「反日」組織であり、支那国民党の宣伝部隊だったわけです。



参考文献
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 講談社文庫「南京の真実」ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 偕行社編「証言による南京戦史」


添付写真
 南京の街で日本兵が買い物(昭和12年12月17日)(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


南京陥落当時の貴重な映像(1of5)
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8



南京陥落当時の貴重な映像(2of5)
http://www.youtube.com/watch?v=JZQTdOfUlck


南京陥落当時の貴重な映像(3of5)
http://www.youtube.com/watch?v=dS1KEvLgRUs

南京陥落当時の貴重な映像(4of5)
http://www.youtube.com/watch?v=IpYXmyAW_fw

南京陥落当時の貴重な映像(5of5)
http://www.youtube.com/watch?v=r-hCB4O49ms

PageTop

南京陥落後の支那軍便衣兵の処刑は合法

便衣兵の処刑は虐殺ではない。


S_2


 昭和12年(1937年)8月、支那軍が日本海軍陸戦隊を攻撃し第二次上海事変が始まり、11月に支那軍は総崩れとなり、日本軍は追撃戦に移り、12月に南京戦となります。日本軍は12月13日、南京城内へ突入しました。14日から16日まで掃討戦を行います。しかし、困ったことに支那兵は平服に着替え、便衣兵として安全区と言われる民間人の避難場所に潜伏しまったのです。日本軍から見れば彼らは武器を隠し持ち、戦闘意思を持った集団でした。日本軍が摘発した支那兵の隠匿兵器はトラック50台分に及びました。


 1月4日付 ニューヨーク・タイムズ
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、爆薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
 この元将校たちは、南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」


 戦争時はハーグ陸戦法規という一定のルールがあります。その中に「交戦者の資格」というものがあります。
1)部下の為に責任を負う者に在ること
2)遠方より認識し得べき固着の特殊標章を有すること(軍服などのことです)
3)公然兵器を携帯すること
4)その動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること


 南京陥落のとき支那軍の大将・唐生智は兵たちをおいてトンズラしていました。高級将校は安全区の中に隠れました。便衣兵は民間人の服を着て安全区の中に隠れました。武器も隠し持っていました。つまりハーグ陸戦法規に違反していたということです。交戦の資格を有しないものは「捕虜」になることはできません。本来は大将あるいはそれに準ずるクラスの将官が正式に降伏し、武装解除すれば兵士たちは捕虜としての待遇を受けることができます。しかし、支那軍はそれを行わなかったため、停戦なく、戦闘が継続したのです。その中で日本軍は便衣兵を摘発し、一部の反抗的な便衣兵、敗残兵を処刑し、従順なものは捕虜として保護しています。この便衣兵の処刑は合法的であり、虐殺には相当しません。


 当時の法規の認識として日本本土決戦計画の「国民義勇隊」を組織する話の中で南原東京帝国大学法学部長は以下のように述べています。


「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方がないのです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に会います」


 これが当時の法解釈のスタンダードでしょう。南京戦の便衣兵の処刑は法律上問題ないという見方ができます。一方、違法という意見の人もおり、ハーグ陸戦法規の「前文」には、各条文の内容を「人道的見地から運用する必要」というのがあり、「捕虜の処刑に対しては裁判の手続きを要する」という人もいます。ただ、これらは現代感覚に照らし合わせた「人道」であり、当時の感覚ではないように思います。捕虜になっても襲ってくるような支那兵という特質、大将が見捨てて降伏手続きをとらなかったという背景というのも考慮しなければならないでしょう。


 当時の安全区にいた欧米人も国際法上の「判断」に基づく批判はなく、南京の安全区を管理していた国際委員会は便衣兵と思われる処刑を目撃し、「われわれには日本軍の合法的な処刑について抗議する権利はない」と記録しています。また、国民党政府顧問のベイツ教授でさえ、安全区に隠れていた兵士が摘発されたとき「この男がもと兵士だったならば、われわれは手出しはできない」という軍事上の判断を示しています。安全区の記録は国民党の宣伝本「戦争とは何か」にも掲載されており、宣伝本でさえ便衣兵の処刑は合法的と見ており、支那国民党のスパイをも国際法違反という感覚は無かったということです。亜細亜大学東中野教授の研究では国民党の宣伝本の「戦争とは何か」でも日本軍の捕虜の処刑の違法性の部分を削除するなどしており、執筆したベイツ教授は認識していたとし、国民党は国際法上の観点も研究していたはずである、と結論づけています。つまり便衣兵の処刑を虐殺だと誰も認識していないということです。



参考文献
 草思社「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 文春新書「南京事件の探究」北村稔(著)
 草思社「南京事件『証拠写真』を検証する」東中野修道、小林進、福永慎次郎(共著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)


添付写真
 「南京陥落後の街頭にて」(昭和12年12月20日)、林特派員撮影、同25日、朝日新聞に掲載
    ~ 日新報道「南京の真相」


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


南京虐殺ニセ写真
東北地方のプロック紙「河北新報」の平成7年(1995年)年5月20日付夕刊に掲載された。
仙台市在住の旧軍人から「日本兵の軍服が当時(昭和12年12月)と異なる」と指摘された。
将校は長靴で帯刀するが、軍刀がないし、日本兵は左肩から右腰にベルトをしないことから日本兵ではない。(H7.3.5産経新聞より)


S_3



PageTop

南京事件におけるスマイス博士の被害報告はプロパガンダだった

スマイス報告にトリックがあった。


S121214


 昭和12年(1937年)12月、支那事変は南京戦へと移りました。蒋介石はトンズラし、南京防衛軍司令官の唐生智もトンズラし、南京に残された市民は外国人メンバーが構成する国際委員会が保護することになりました。この国際委員会の書記に金陵大学のスマイス博士という人がいます。この人が翌年3月に南京戦の被害調査を行っています。調査はサンプリング方式がとられ、50戸に1戸の割合で調査し、50倍するというものです。これによると死亡者数は以下の通りとなっています。


<死亡原因>(都市部調査)
 軍事行動    800人
 兵士の暴行 2,400人


 30万と言われる大虐殺がわずか2,400人と出ています。虐殺肯定派はこの調査を無視するか、さもなくば「一般住民の死者があまりにも多い点」とだけつまんだり、「数字は過少」と言っているようです。


 大阪学院大学教授の丹羽春喜氏によると被害者となった成年男子の44.3%が「独身・単身者」であることに注目しています。南京の人口のうち「独身・単身者」は5.2%と推計され、これに比べると44.3%は異常に多い数字になっています。これらは本来の南京市民ではなく、多数の便衣兵が含まれていたという判断を下しています。便衣兵の処断は虐殺ではありません。


 南京は都市部と近郊六県があり、スマイス報告では近郊六県は「農村部」として殺害されたもの26,870人としています。この数字には虐殺肯定派は何ら疑問を示さないといいます。立命館大学教授の北村稔氏によるとこの調査の集計方法が都市部と異なる点を指摘しています。3つの村1つを対象に10戸のうち1戸を調査しているので、30倍すればよいわけですが、1家族あたりの平均被害状況に平時の全家族数を乗算しているので、数字が大きくなっているといいます。南京戦当時は住民の多くは避難していましたし、日本軍が通過した地点は限られています。平時の全家族数を乗算すれば数字は大きくなります。また、近郊で被害にあったのは支那軍の焦土作戦による虐殺がほとんどでしょう。北村氏は「日本軍を告発する巧妙なトリック」と断じています。


 実はスマイス博士は国民党宣伝処顧問のティンパーリーの依頼を受けて調査を行っていました。実際、スマイス報告をよくみると注記に「市内および城壁附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、12,000人の一般市民が暴行によって死亡した」と書いています。調査結果、被害数があまりにも少なかったので、このような記載を入れたものと思われます。12,000というのは紅卍字会が埋葬した死体約40,000のうち30%は一般市民であると主張するティンパーリーの数字と一致しています。


 このスマイス報告は日本側も認識しており、昭和15年(1940年)に日本の興亜院政務部が南京の調査を行った報告の中で述べられています。吉田三郎という人の報告です。


「これはその時にもらった資料でありまして南京地方に於ける戦争によるフィールド・リサーチ以下各種の統計的研究であります。こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、所謂(いわゆる)科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく看ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」
「たとえばこういうことをやっている。南京地方に於ける損害の統計を作る場合に、戦争の直接の被害、火災によるもの、日本の軍隊の略奪によるものというような項目が挙がっており、火災の場合についていえば、支那軍が逃げるときに放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。数字としては極めて確かだけれども、これでみると皆日本軍がやったことのように見えるのです。その様に巧妙なる科学戦争というものが世界中にこの機関から通してまかれている事実を見たのであります」


 きっちり見破っています。スマイス報告も結局プロパガンダだったわけです。



参考文献:
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 文藝春秋「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 河出書房新社「日中戦争資料集<8>南京事件Ⅰ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
 河出書房新社「日中戦争資料集<9>南京事件Ⅱ」日中戦争史資料編集委員会・洞富雄(編)
添付画像
 最後まで踏み止っていた南京市民が防空壕から出て来て日本軍の布告に安心する(昭和12年12月14日)(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。


南京虐殺の嘘 1/3

http://www.youtube.com/watch?v=qniP3os-DWw




南京虐殺の嘘 2/3
http://www.youtube.com/watch?v=R89TBP1RavA


南京虐殺の嘘 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=J8MFaMq1GTs

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。