かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

植民地に教育は不要だった

有色人種は人間以下だった。


Sglenn_s_hensley



 ビルマ(現ミャンマー)がイギリスに植民地支配されている頃、イギリス人は学校を作りましたが、大正9年(1920年)の時点で学校数は90校で高等教育の場はラングーン大学(現ヤンゴン大学)とミッション系の大学しかなく、就学率はわずか4.9%でした。 仏印インドシナ(フランス領のベトナム、ラオス、カンボジア)では大正11年(1922年)で就学率1.7%、昭和17年(1942年)でも3%です。白人は有色人種に教育を施す気はありませんでした。賢くなって反抗されては困りますから。教育を受けたものは名誉白人という称号を与え、そうでないものは白人の良き下僕となるように仕向けられました。

 大学ではきっちりとした教育が行われていたかというと戦後、ビルマで抑留生活をしていた会田雄次氏の記録(アーロン収容所)に面白い話が載っていました。
 会田氏がラングーン大学の英文科を卒業したビルマ人に会ったときのこと。そのビルマ人はシェイクスピアに関する卒業論文を書いたといい、「カンタベリー物語」(イギリスの詩人、ジェフリー・チョーサー)を読んだという。会田氏は自分より英会話がうまいし、「カンタベリー物語」を読破するとはとても歯が立たないと思い、大いに敬意を表し、その本を見せてくれ、というとビルマ人は大得意で貸してくれました。ところがその本を見てみると絵入りのカンタベリー物語、シェイクスピア劇物語であり、日本で言えば中学校2,3年生程度が読むような簡易化した本でした。しかも本人は本物だと思っているので会田氏は驚いています。大学といってもイギリス人はこの程度しかビルマ人を見ていなかったわけです。

 もっともイギリス人も大したことはなく、この当時、算数が出来るものは少なく、会田氏の著書によるとイギリス人は掛け算ができないのです。経理担当のイギリス兵士は計算はできますが、そうでない兵士がトラックの荷物の受け取りなどに来ると48個入りの木箱が20だと48を二十回足し算していたため計算に20分ぐらいかかっていました。なかには「ヘーイ、ジャニイ」と日本兵を読んで、計算しろ、といい、1回で計算してみせるとしきりに首をひねっていたといいます。
 また、収容所内で新聞の発行許可をもらいにイギリス軍将校のところへいくと
「日本人の中で文字が読めるのは何人いるか?」と聞かれて「全員読める」といったところ、イギリスでは、とてもそうではなかったため、信じてくれなかったと述べています。
 元自衛官の池田整治氏の著にも父親がシンガポールに抑留されていたときの話が載っていますが、イギリス軍将校が
「日本の兵隊は文字が書けるのか」と質問してきたので「日本人なら誰でも読み書きソロバン(計算)ができる」と答えたところイギリス人らはびっくりしたといいます。
 イギリスはブルジョワジーとプロレタリアートがはっきりしており、軍隊の中でも同様で士官と下士官の区別がはっきりしています。日本軍の一兵卒が大学の講師をやっていたと言うと信じてくれなかったと会田氏は述べています。

 ちなみに日韓合邦時代の朝鮮半島では大正5年(1916年)から3村1校の教育普及政策が推進され、大正14年(1925年)の就学率は15%。高等教育では98校となっています。大正13年(1924年)に京城帝国大学が設立されています。大阪帝大や名古屋帝大よりも早く設立されています。昭和4年(1929年)からは1村1校が進められています。昭和11年(1936年)には公立普通学校は2,500校に達し、昭和18年(1943年)の就学率は61%。台湾では昭和18年(1943年)には義務教育を実施しています。これらの数字を見ても朝鮮、台湾を「植民地」と呼ぶのは誤りです。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)
添付画像
 1945年ごろのラングーン大学(講堂だと思われる Glenn S. Hensley氏)



人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

スポンサーサイト

PageTop

大東亜戦争時のビルマ人とインド人

仲が悪いのは白人が仕掛けたデバイド・アンド・ルール


S



 大東亜戦争後、ビルマ(現ミャンマー)で抑留されたときのことを書いた会田雄次(著)「アーロン収容所」にはインド人とビルマ人の仲が悪かったことが書かれています。会田氏が歩哨にたっているとインド兵が逃げてくる。インド兵は武装していないので非番で休暇をとっていたと思われ、服は破け、顔を打たれたらしく血が流れていました。追いかけて来るのは一塊のビルマ人らで女性の姿も見えます。このインド兵は会田氏ら日本兵捕虜に助けを求めます。ここはおもしろいところで、同じインド兵のところに助けを求めないのです。インドは宗教各派や地方、カースト別に隊が異なっているので簡単にインド兵に助けは求められず、なんと日本兵捕虜に助けを求めたのです。
 実は日本兵捕虜とビルマ人が闇取引をやっていたのをインド兵が禁止し、物資を没収したのでした。それで何かの拍子に怒りが爆発したのです。インド兵の親玉はイギリス軍です。イギリス軍はインド兵を使って取り締まりをさせていました。デバイド・アンド・ルール(分割統治)です。民族間を対立させ、その上に君臨統治する白人の手法です。

 イギリスはインド人を使ってビルマを支配していました。ビルマ国防軍のアウンサン(スーチー女史の父)もインド人に父を殺されています。インドのパンジャブ・ライフル部隊はビルマ人を殺しまくりました。大東亜戦争をきっかけに国外のインド人は独立へ向けて立ち上がりましたが、ビルマ人はそんなインド人に協力するのを拒否しました。ラングーンに自由インド臨時政府を置くのを拒否。日本の特務機関は懸命にビルマ政府を説得しました。自由インド臨時政府主席のチャンドラ・ボースはビルマ政府首相バー・モーの娘の結婚式に多額の贈り物をしてビルマ人の反インド感情を和らげようとしています。しかしビルマはインパール作戦にはそっぽを向きました。

 白人の有色人種支配は数百年かけたノウハウがあり巧みです。「アーロン収容所」によると不良イギリス軍士官がおり、腹をたてたビルマ人らが宿舎を襲撃してくるので、見張りには日本兵捕虜をたてるという驚いたことをしています。インド兵だと襲撃をやめないからです。日本兵が見張りにたつと襲撃してこなくなりました。
 日本兵捕虜が大工や左官、機械工など高い技術能力があることを知ったイギリス軍はこれを商売に使います。ビルマ人やシナ人の民営工場に派遣して働かせてビルマ人の数倍のカネをとるのです。
「日本兵は仕事をやれやれと強制すると反抗してかえって動かなくなる。自信が強いからなるべくおだてて使うとうまくいく」というパンフレットまで用意するという手の込みようでした。

 日本では終戦後に朝鮮進駐軍と称する朝鮮人が横暴を働いていましたが、GHQは半ば黙認しています。これはデバイド・アンド・ルールです。台湾人を戦勝国民と位置づけ優遇したのもデバイド・アンド・ルールです。沖縄の諸施設の名称を「琉球」に変更し、内地と距離を置くよう仕向けたのもデバイド・アンド・ルールです。

 さてミャンマー(ビルマ)ではアウンサン・スーチー女史の話がよく聞かれますが、彼女はイギリスが身元を引き受け、教育し、ハンサムな英国人と結婚させました。父の暗殺犯はイギリスの歴史が言うウ・ソー(ビルマ元首相)だと洗脳されました。彼女はイギリスとインドの利益の立場の人です。ミャンマーは民主主義 vs 軍政という単純な構造ではないようです。デバイド・アンド・ルールは今もミャンマーを混乱させています。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「歴史通」2010.3月『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
添付画像
 シュエタゴンパゴダ(C)
   Author: Ralf-Andre Lettau
    Date: 15. Nov. 2005
    Notes: Shwedagon Pagoda
    Source: Photo taken by Ralf-Andre Lettau


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

日本のサムライと戦ったことは誇り

当時の人の手記を読むのは戦後のマインドコントロールから目覚めるきっかけになる。


S



 大東亜戦争で日本軍はビルマへ進攻し、イギリス軍を追い散らしました。しかし、日本は敗戦。ビルマの日本兵士は捕虜となり抑留させられます。陸軍一等兵だった会田雄次氏はそのときのことを「アーロン収容所」という著書に残しています。
 「アーロン収容所」ではイギリス軍兵士は日本兵捕虜と話しをするようなことはあまりなく、例外的に「日本人はこの敗戦をどう考えているか」「復讐をしないのか」(カタキウチという日本語を使って聞かれた)「なぜ武装解除に簡単に応じたか」と問いかけられることはあったと書いています。

 あるとき、アメリカで働いていてハーバード大出のイギリス軍中尉が日本兵捕虜の作業場所に来ました。彼は人懐こく、日本兵捕虜によく話しかけていました。そして作業指揮官の日本兵将校と話をしていました。そのとき、日本兵将校が「日本が戦争をおこしたのは申し訳ないことであった。これからは仲良くしたい」とという意味の言葉を言ったところ、このイギリス軍将校は次のように述べました。

「キミたちは奴隷(スレイブ)か。奴隷だったのか」

 人懐こいイギリス軍将校が急にいずまいを正すような姿勢を取りました。会田氏はハッとしました。

「我々は我々の祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それとも主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私は彼らが奴隷と戦って死んだと思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝った事を誇りとしているのだ。そういう情けないことはいってくれるな」

 会田氏はイギリス軍将校の言葉には相手を勇気づける好意が含まれているのを感じ、頭がさがる思いであったと述べています。このイギリス軍将校の言葉は戦後の日本の自虐史を真っ向から否定するような言葉でしょう。

 ジャーナリストの笹幸恵さんは、10代のとき、友人の家に遊びにいったとき、ふとこの「アーロン収容所」が目につき、そして読み、このイギリス軍将校の言葉に衝撃を受けたと述べています。

「この日本の将校と英軍中尉のやりとりは、私がそれまで受けてきた十数年の教育を根底から覆すのに十分でした。私たちの父祖の本当の歴史を自分でなんとか学ばなければならないと思いました。戦史や体験記を読んでもわからないことがある。ならばかつての戦場をこの目でたしかめ、この足で歩いてみたいと考え、これまでガダルカナル島をはじめ主に南太平洋の島々を巡ってきました。過去を過去の視点で見ることなしに、単純な善悪二元論で、戦後の日本人があの戦争は誤りだったと断ずるのは傲岸(ごうがん)だと思います」

 笹幸恵さんは学校で
「日本は無謀な戦争をした」と教えられてきましたが、年齢を重ねると疑問が出てきて、「無謀だとわかっている戦争など誰も賛成し、参加するはずもないではないか。無謀と思わない何かを信じたから、あるいは無謀ではあっても、やむを得ざる戦いだったのではないか。そうした疑問を抱えたまま漫然と十代を過ごしていた」と述べています。そしてアーロン収容所を読んで覚醒したのです。戦後教育を受けて来た人は大東亜戦争について笹幸恵さんのように学校やマスコミで言っていることに何か疑問を感じながら過ごしている人は多いのではないでしょうか。そういう方は是非その疑問を自分で調べてみてください。



参考文献
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
 「正論」2009.10『なぜ歴史の事実は封印されたのか』新城卓 笹幸恵 上島嘉郎

添付画像
 ゼロ戦(靖国神社 JJ太郎撮影)PD



人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

イギリス軍の残虐さ

冷酷に残虐さを発揮したイギリス兵。


S800pxayeyarwadyd08



 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦が発動されました。日本軍はアラカン山脈を越えてインパールを目指しました。インドの地でイギリス軍に一撃を加え、インド国内に独立機運をつくりあげる目的がありました。しかし、この頃は既にアメリカからイギリス軍にM4戦車などの優秀な装備が手渡されており、日本の対戦車砲は歯が立たず、2ヶ月にわたる激戦の末、日本軍は撤退します。そしてここから英軍は日本軍を追撃していきます(雨季に入ったため深追いはしなかった模様)。イギリス軍は戦闘だけでなく捕虜となった日本兵士の大虐殺を行なっています。

15師団栃平主計曹長の記録
「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけて行った。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけたのだろうと思った。次の瞬間、担架が燃え始めた。見る間に黒煙があがり、あたりは火の海になった。彼等がかけたのはガソリンだった」

 グルカ兵がご主人の英軍の言いつけで足手まといの日本軍傷病兵捕虜を焼き殺したのです。イギリス軍は日本軍の野戦病院も攻撃し、そこの日本軍傷病兵を道路に並べ、将官クラスは後で尋問するのかトラックに載せ、残った日本兵はガソリンをかけ焼き殺しています。疫病の伝染を防ぐ目的もあるのでしょうが、生きたまま焼き殺すとは・・・

 戦争が終わった後、日本兵は捕虜となり強制労働に従事させられます。その中で次のような話があります。

 陸軍一等兵の会田雄次氏が戦闘中にイギリス軍の捕虜になった日本兵から話を聞きました。
「私はミッチーナで傷を負い、倒れていてイギリス軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもよいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人に知らせてください」

 彼はイラワジ河(エーヤワディー川)のずっと河下におり、その中洲に鉄道隊にいた日本人が百何十人か入っていました。泰緬鉄道でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑いがかけられてそこに収容されていたのです。そこで何があったか。

 イギリス軍は日本人百何十人の一群を河の中州におき、食糧をほとんど与えませんでした。その中州には毛ガニが棲息していますが、赤痢菌まみれで生では食べれません。中洲は潮が満ちてくると全部水に没し、30センチぐらいの深さになります。日本兵捕虜は背嚢を頭に載せて塩が引くまで何時間もしゃがまされました。イギリス兵は決してカニを生食しないよう警告しますが、日本人捕虜は耐えがたい飢えのため毛ガニを食べました。薪などイギリス軍は用意してくれませんから、生で食べたのです。そして皆、赤痢にやられ血便を出し血反吐を吐いて次々に死んでいきました。水を飲みに行って力尽き、水の中へうつ伏して死ぬ、そんな無残な死に方をしたのです。
 看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日、観測していました。全部死んだのを見届けて
「日本兵は衛生観念不足で自制心に乏しく、イギリス軍の度重なる警告にもかかわらず生カニを捕食し、疫病にかかって全滅した。遺憾である」と上司に報告したのです。

 イギリス兵は殴ったり蹴ったりというのはなく、それはオーストラリア兵に多かったようです。イギリス兵は小児病的復讐心を持ち、表面上、非難に対してうまく言い抜けできるように冷静に、そして冷酷に残虐さを発揮したのです。



参考文献
 「歴史通」2009.7月『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『イギリス軍捕虜収容所の悲惨』岩田温
 中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)

添付画像
 エーヤワディー川 Auth:Colegota(CC)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop

ディマプールへ進撃せよ ~ インパール作戦

勝敗は紙一重だった。


Photo_3



 「コヒマ占領後、引き続きディマプールに突進してもらいたい」


 昭和19年(1944年)ビルマから国境を越えてインドへ進攻するインパール作戦で第15軍牟田口司令官からコヒマを攻略する第31師団へこの司令が出されます。ディマプールはコヒマの北西方40キロにある要所です。しかし、これはインパール作戦計画にはないものでした。第31師団の佐藤師団長は黙殺の態度で聞き流しました。

 第31師団歩五八の主計将校の記録によると
「歩兵五十八連隊が敵をズブザまで追撃し、その後は歩兵百三十八連隊がディマプールまで追撃する」とあり、ディマプール進撃は意識されていたようです。同じく歩五十八の左官の記録からは「敵が北方に向けただちに追撃しようとしていた右突撃隊にコヒマに進攻すべしの命令が四月四日暗くなってから左突撃隊の司令官から発せられた」とあり、ディマプールへの攻撃が中止されたことを物語っています。

 ディマプールはイギリス軍の物資集結基地であり、ディマプールが陥落するとベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、アメリカ軍を崩壊させていただろうという要所です。英ディマプール方面33軍団最高司令官スタッフォード将軍は戦後、牟田口司令の指示通りディマプールを攻撃していたらインパール作戦は成功していた可能性が高かったことを認めています。戦後、イギリス軍の元将校は牟田口司令に
「なぜコヒマからディマプールへ攻撃してこなかったのか」と問い合わせてきています。イギリス軍将校はたちはこぞって日本軍は千載一遇のチャンスを逃したと思っていたといいます。

 牟田口司令官がディマプールの情報をどれだけ押さえていたか不明ですが、軍直轄の特務機関である西機関がチンドウィン河に近いホマリンでインパール作戦準備のための情報活動と、住民宣撫工作を行なっていました。作戦発動前年の11月にインド人工作員3名をディマプール方面へ派遣しています。軍としてはある程度の情報を掴んでいたと考えられます。
 この頃のビルマ戦線では雲南方面の状況については特殊情報班の活躍により通信を傍受解読していました。支那軍の漢字の解読は行えており、そこから間接的にイギリス軍の情報は掴んでいたようです。加藤隼戦闘隊隊員の手記からは昭和18年初期からイギリスの暗号解読が進み対峙するイギリス軍将校の名前もわかっていた、と書かれています。これらのことから牟田口司令官は不十分ながらもディマプールに関する情報を持っていたと考えられます。

 インパール戦でイギリス軍は戦力を後退集結させて日本軍を迎え撃つ戦法に出ましたが、これには広大な領土を戦わず放棄することになるため、インド国内への影響、インド兵士らの士気低下が懸念され、難しい判断であったようです。日本軍がディマプールへ進撃していたらインド国内、インド兵士に動揺が走り新展開の可能性は十分あったでしょう。勝敗は紙一重だったと言えます。しかし結局、牟田口司令官が主張していたディマプール進撃はビルマ方面軍の河辺司令官に拒否されました。そして前線の兵士は武器弾薬、食糧の補給の薄い中、血みどろの死闘を繰り広げ、白骨街道を撤退していきました。恨みはすべて軍司令官の牟田口中将に向けられました。牟田口司令官はインパール作戦の撤退を決めた後、このように訓示しています。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

 インパール作戦から撤退してきた兵士は小銃を肩にしている兵はまだ良いほうで、鉄帽はおろか、ゲートルもなく、素手で飯盒だけ持って雨季の中、雨にうたれている幽鬼の群れでした。

 歩五八・平久保中尉 撤退中に餓えと病で死んでいった兵士の死体を見て
「思えば戦闘間に天皇陛下の万歳を唱えて死ねた将兵は幸福だった。それに反し、ここに死んでいる兵士たちは、おそらく世の無情を思いながら、苦痛にせめたてられ、最後には母の名を呼んで逝っただろう」

 インパール作戦は奇襲による一撃の成否の作戦であり、ディマプール進撃計画は正しかった。しかし、作戦発動後の過程による判断は誤っていたといえるでしょう。作戦は失敗。ではインド・ビルマの地に散った日本将兵は無駄死にしたのか?そうではなかったと思います。イギリス第十四軍司令官ウイリアム・J・スリム中将は自著で以下のように述べています。

「彼ら(日本軍)がアッサムにおける勝利は遥かな密林の土地から遠くへ知れ渡るであろうと考えたのは正しかった。彼らが各部隊に対する訓示で声明した如く世界戦争の全過程を変えたかもしれない」





参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 WAC「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」ジェームス・B・ウッド(著)/ 茂木弘道(訳・注)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 学研M文庫「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インパール作戦」「牟田口廉也」

添付画像
 ビルマ方面軍司令官・河辺正三(PD)


人気ブログランキングへ 応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。