かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

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ジャイ・ヒンド!(インド万歳)

ついに立ち上がったインド民衆。


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 昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動しました。インパール作戦はインド国民軍(INA)も参加し、国民軍は愛しき祖国へ向け出撃しました。ラングーンから短波放送で大東亜戦争の意義とインドの独立、チャンドラ・ボースの演説が流され、インド国民の決起を促しました。イギリスはインド国内で情報統制を行なっていましたが、この放送は少なからずインド人のモラルに影響を与えました。

 しかし、インパール作戦は失敗。一瞬祖国インドの地を踏んだインド国民軍も撤退しました。そして昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦。これにともないインド国民軍も連合軍に降伏しました。イギリスはインド国民軍兵士を裁判にかけ反逆罪で処罰しようとしていました。ところが、戦時中は厳しい検閲によってチャンドラ・ボース、インド国民軍の実態はわずかなインド人しか知りませんでしたが、終戦後次第に明らかになってくるとインド民衆は熱狂的に彼らを支持しました。

 ジャイ・ヒンド!

 人々はチャンドラ・ボースの写真を熱烈に買い求めました。民衆は警官隊と激しく衝突、インド軍も反乱を起し、水兵は「インド国民海軍」を名乗りました。イギリス軍は戦車隊を出動させ鎮圧に乗り出します。イギリス軍の対日戦戦勝パレードはボイコットされ、家々には弔旗が掲げられました。パレードの予定されたコースへ数万の抗議デモが進入し、再び警官隊と衝突、流血の惨事が繰り返されます。

 昭和20年(1945年)11月、インドの首都ニューデリーにおいて大掛かりな軍事裁判が開かれました。日本のF機関・藤原少佐はINA将兵を裁くデリーのイギリス軍軍事法廷の証人として召喚されました。

 藤原少佐

「最も清純な祖国愛にもとづき、自主的に決起したもので、断じて日本の傀儡でなかったことを立証しなければならぬと考えた。これが盟友に対する盟義を果たす唯一の途であると思い定めた」

 藤原少佐がニューデリーへ着くと、先に光機関長・磯田中将、参謀・香川大佐と高木中佐、自由印度仮政府在勤大使・蜂谷氏が先着していました。裁判の様子を聞くと高木中佐と香川大佐はこのように語りました。

「すさまじいものだ。全印度は鼎(かなえ)の沸騰する総起ちの騒ぎだ。INA裁判の即時中止、釈放、印度統治権の返還、英人の引き揚げを要求しているんだ。INAは印度の愛国者だ。英雄だ。INAは日本の傀儡ではない。INAが日本を利用したのだと主張しているんだ。国民会議派有数の領袖を網羅した大弁護士団を編成して、一挙印度の独立獲得を期して闘っているのだ。・・・」

 全インドに巻き起こった凄まじい民族的抵抗に出会って、イギリス政府も総督も軍司令官も狼狽し、あわてふためき、彼らは遂に反乱罪を取り下げることになりました。単なる殺人暴行罪として起訴すると声明しましたが、インド民衆の怒りは治まらず、判決は禁固15年としておいて軍司令官より同日付をもって「執行停止、即日釈放」の宣告を下したのです。

 インド法曹界の最長老パラバイ・デサイ博士
「インドはほどなく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった」

 昭和22年(1947年)8月15日、インドは独立しました。



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 小学館「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)

参考サイト
 反日ワクチン デリー軍事法廷
   http://vaccine.sblo.jp/article/16840993.html

添付画像
 1947年8月15日憲法制定議会の独立記念日セッションで演説する英マウントバッテン卿(PD)


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親日国インド
http://www.youtube.com/watch?v=CunDINRHP_8


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第31師団の独断撤退、そしてコヒマに咲いた花 ~ インパール作戦

コヒマに日本兵の花が咲いた。



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 昭和19年(1944年)3月、インパール作戦発動。佐藤幸徳中将率いる第31師団は3つの突進隊に分かれ、アラカン山脈を越えてコヒマへ進撃しました。4月上旬にはコヒマを占領。1個師団が山脈越えでやってくるとは思っていなかったイギリス軍は大慌てとなります。コヒマはディマプールとインパールの間にあり遮断されればインパールの補給ができなくなります。またディマプールまで攻撃されると、ベンガル・アッサム鉄道が切断され、北部の支那、米軍を崩壊させることになるからです。そしてコヒマで2ヶ月にわたり攻防戦が繰り広げられました。


 インパール作戦は兵站の問題がよく指摘され、補給がままならない状態であったと言われています。第31師団歩五八の主計将校の記録によると現地徴発を行なっています。主食の他、牛や豚を多量に集めることができたとあります。しかし5月からは敵戦車も出現するようになり、砲撃も激しく食料調達、炊事が困難な状況になっていきました。師団本体の方面はイギリス軍の挺身旅団が後方に侵入し、宣伝によって付近住民の感情が悪化して徴発に応じないようになっていました。

 そして6月2日、佐藤幸徳(さとう こうとく)師団長は補給がないことを理由にコヒマから独断で撤退してしまいます。

 ビルマ方面司令部宛

「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」

 佐藤中将は独断撤退しましたが、師団の支隊である宮崎繁三郎隊は6月22日までコヒマ~インパール道の遮断し、踏ん張っていました。しかし、イギリス軍の1000両におよぶ戦車自動車に突破されました。日本軍には戦車に対して有効な対抗手段を持っていませんでした。
 先に撤退した佐藤師団はモンスーンの季節になった泥んこの道でマラリア、脚気、アミーバ赤痢で苦しみ歩けぬようになり自決するもの、部隊から離脱するものが続出します。それでも残り少なくなった牛を殺して食べたり、山中でタケノコを取って退却行軍しました。1ヶ月かけてチンドウィン河にたどり着きますが、雨季の濁流によって体力が落ちた兵は飲まれて流されてしまいます。

 7月5日に宮崎支隊に撤退命令がでます。第31師団本隊が糧食を求めて撤退した後を行くのです。籾ひとつ残っていない死の退却路です。

 宮崎少将は各部隊に以下を伝達します。


一、後退途中、まだ息のある行き倒れの兵にあったら、必ず救うこと。
二、既に死亡している者に対しては、部隊名と姓名を控えた後、道路から見えないところに死体を運ぶか、または深く埋めること。


「よいか。餓死した死体を敵に写真に撮られて、宣伝材料に使われないよう。日本軍の退却は、このように立派だということを、敵に教えることも大切だが、もう一つ、戦友は絶対に捨てない、という考え方を確立することが、一番大切なのだ。軍隊として一番大切なことであるので、いま命令した二項目は、わが部隊がたとえ、それを実行することに拠って全滅してもよい。絶対に厳守して実行してほしい」 

第31師団参加兵力 約15,000
死亡 : 7,500(戦死4,000 戦病死3,500)
戦傷、戦病によって部隊を離れたもの 4,500

 日本軍がコヒマから去ると野生の雑草の紫の花がいっせいに咲きました。この花は生命力が強く、繁殖力があり、少々のことでは枯れません。そして群生して仲良く一斉に花をつけました。現地のナガ族は敵の圧倒的優位な武力に屈することなく、最後まで組織的に戦い、素手に近い装備でも敵の洗車を鹵獲した日本軍の敢闘精神とこの花が二重写しとなり「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」と名づけました。




参考文献
 PHP「インパール作戦」土門周平(著)
 光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
 吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
参考サイト
 WikiPedia「佐藤幸徳」

添付写真
 宮崎繁三郎(PD)



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弓兵団、ビシェンプール、パレルで奮戦 ~ インパール作戦

日本兵士たちの死は無駄死にではなかった。


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  昭和19年(1944年)3月、日本軍はインパール作戦を発動。インド国民軍とともインドのインパールへ進攻しました。5月、日本軍第33師団(弓兵団)はインパール南のビシェンプールを攻撃します。この地を攻略しなければインパールへは到達できません。

「この突撃ならざれば、原隊に見ゆる(まみゆる)ことなかれ」

  突撃大隊は何度か市街に突入しますが、一人も帰ってきません。

  歩兵第二百十四連隊第一大隊長・斉藤満少佐は、5月24日夜、兵380名を率いて、ビシェンプールの北端しから敵陣へ突入。千余名の敵を倒し、360名が戦死。残った20名は28日に敵陣突入し、全員戦死。第九中隊の47名が敵後方に挺身し、敵砲兵陣地を急襲、戦車4両、トラック6両を破壊、敵の宿舎を奇襲します。ビシェンプールのこのような大激戦は70日にわたり展開されます。6月30日の師団の損耗は戦死傷者約7,000、戦病約5,000、計12,000。第33師団の70パーセントにのぼりました。

  第33師団がもっともインパールに近づいたところはレッド・ヒルというところで二百十四連隊はほぼ全滅しています。

  ビシェンプール東南20キロのパレルでは弓兵団の山本支隊が奮戦しました。もはやパレル突破の見込みがなくなっても切り込み隊を編成して殴り込みをかけました。第一陣、井上挺身隊13名は7月1日にクデクノーを出発。敵飛行場のに突入。破甲爆雷、手榴弾による一人一機必殺を念じ見事成功。7月4日に全員無事帰還しました。
  更に第二陣として山田芳枝准尉率いる山田挺身隊9名が出発しました。第一陣の襲撃により敵は警戒を強めているため山中に潜伏したり水中に体を没して敵の隙をうかがいました。敵分哨に遭遇した際は山田准尉が抜刀、兵は銃剣で急襲し、敵に発砲の余地を与えずこれを全滅させました。そして9日の夕方、兵舎、兵器庫、燃料庫を爆破炎上させ、10日に全員無事帰還しました。

  やがて弓兵団は撤退していきましたが、山本支隊の歩兵二百十三連隊の二十数名は撤退の時間を稼ぐため、テグノパールの高地を死守します。追撃してくる敵を引きつけた後、銃身が焼けるほど熱くなるほど撃ちまくり撃退しました。弓兵団の意地を見せつけたのです。

  日本軍兵士たちはインパール手前であるものは無念にも斃れ、あるものは退却していきました。レッドヒルで全滅した二百十四連隊500人の日本兵の霊を弔うために地元ロトパチン村人が慰霊塔を建てました。村人は戦いの中で傷ついた日本兵に食べ物を届けてくれたといいます。私たちのために戦ってくれた、と。

  ロトパチン村の村長
「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです」

  インパール作戦は惨敗に終わりましたが、インドの地に斃れた日本兵士たちは決して無駄死にではなかったのです。



参考文献
  PHP「インパール作戦」土門周平(著)
  歴史通2009.7『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
  光人社NF文庫「弓兵団インパール戦記」井坂源嗣(著)
参考サイト
 アジアにおける日本と大東亜戦争インド編
   「日本は本当にアジア諸国に嫌われているのか?」飯嶋七生
   http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_5.html


添付写真
  タム付近で英軍の砲火をうける日本軍 第33師団(山本支隊)と思われる(PD)


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インパール戦の強敵、グルカ兵

勇敢だったグルカ兵。


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  グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称です。19世紀、ネパールとイギリス東インド会社軍との3度にわたる戦争の停戦条約が締結される際に、ネパール山岳民族特有の尚武の気性と白兵戦能力、宗教的な制約が小さい点に目をつけたイギリス東インド会社は、グルカ兵が傭兵として同社の軍に志願することをネパールに認めさせました。山岳民族で勇猛という点では台湾の高砂族と似ているでしょう。グルカ兵は大東亜戦争のインパール作戦で日本軍と交戦しています。

  インパール作戦は昭和19年(1944年)3月に発動されました。このとき日本軍はインド国民軍と行動をともにし、インド国民軍は前線にいる英印軍インド兵の投降を呼びかけました。昭和17年(1942年)のシンガポールの戦いで、インド兵の投降に懲りていたイギリス軍は前面にグルカ兵を配置していました。このため、投降の呼びかけは戦局を左右するほどの効果はあがりませんでした。

  グルカ兵は勇猛ですから、日本軍の戦局打開のための度々の突撃戦法に恐れず立ちはだかり自動小銃を至近距離で連続発射します。インド兵の場合は恐れて逃げてしまうので、イギリス兵はインド兵の足を立ち木に縛り付けていましたが、グルカ兵にはそうする必要がなく、一歩も引かなかったといいます。これで日本軍は被害を拡大しました。

  グルカ兵は勇猛だけでなく、ご主人様(英国人)に忠実でしかも愚直といいます。インパール作戦が中止となり、追撃してくるイギリスの戦車部隊に遭遇し、山中に逃げ込んだ第15師団の栃平主計曹長は次のように記しています。
「川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。次の瞬間、担架が萌え始めた。見る間に黒煙が上がり辺は火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

  ご主人様のいいつけで足でまといになる日本軍傷病兵を焼き殺したのです。残酷な命令であっても忠実に守るわけです。
  終戦となりビルマの日本兵は収容所に入れられます。そしてイギリス軍から「収容所の鉄柵に接近すると逃亡の意志ありと見なして射殺す」と通知が出ました。だいたいこういうのは訓示みたいなものですが、グルカ兵はまじめすぎて柵に近寄った日本兵を自動小銃で撃ち殺してしまいます。

  会田雄次(著)「アーロン収容所」ではグルカ兵に戦争中も収容所でもやられたのである復讐をしたことが書かれています。作業場に電気溶接をやるところがあり、そこにグルカ兵を連れ込みます。溶接作業を見てグルカ兵は大いに好奇心を持ち、
「カクネ、カクネ(面白い、面白い)」といって見飽きるまで強烈な閃光をじっと見つめ、しばらくしてぶっ倒れます。これを次の日本兵捕虜作業員にも申し送り、約10日も続けたそうです。さすがにイギリス軍が調査してグルカ兵に見学禁止を言いわたしました。このほかグルカ兵は「疑う」ということを知らないため、日本兵捕虜が「美しい女がいた」とウソをつくと、グルカ兵はそっちのほうに走って探し、帰ってきて「いない」というと、日本兵がさらに「もっとあっちのほうだ」と更にウソをつくと、何度でも探しにいったそうです。会田氏は日本兵を撃ったのはグルカ兵のせいではないのに悪いことをしたな、と書いています。



参考文献
  光人社「真実のインパール」平久保正男(著)
  中公文庫「アーロン収容所」会田雄次(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
  歴史通2009.7「神のごとく振舞った英国人が青ざめた」高山正之
参考サイト
  WikiPedia「グルカ兵」

添付画像
  インパール-コヒマ間の路上を進撃する戦車を伴ったグルカ兵(PD)


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インド国民軍進め、デリーへ ~ インパール作戦

チェロ・デリー!


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  昭和19年(1944年)3月20日自由インド政府チャンドラ・ボース

「インド国民軍はいまや攻撃を開始し、日本帝国陸軍の協力を得て、両軍は肩を並べて共同の敵、アメリカ、イギリスおよびその連合国に対し、共同作戦を進めつつあり。外国侵略軍をインドより放逐せざるを限り、インド民衆の自由なく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ・イギリスの帝国主義戦争の終息もなし。(中略)ここに自由インド政府は、インドの完全開放の日まで、日本の友情と共に戦い抜くべき厳粛なる決意を布告す」

  インド国民軍、約6,000人が
「チェロ・デリー(進め、デリーへ)」を合言葉にインパール作戦に参加し、日本軍第33師団山本支隊らとインパールに迫るパレルで奮戦しています。第33師団山本支隊はモーレ、タムを突破し、バレルへ進撃しました。佐間連隊、はティディムからトイトムへ、笹原連隊はシンゲルに進出し、開戦わずか一週間で1800両の英印軍自動車部隊を包囲。その後、33師団はビシェンプールへ進撃し、インパールへ迫ります。

  インパール作戦は結果から導き出された「無謀」という刷り込みが行われ、第15軍司令官の牟田口廉也司令官を悪者とする、戦後の日本陸軍悪玉論の格好の標的にされています。しかし、実際には日本軍の特務機関である光機関による諜報、宣伝活動によりインド国内世論の下地をつくり、インパール作戦でイギリス軍に一撃を与え、一気にインド国民の覚醒、蜂起を促すものでした。イギリス軍は日本軍の諜報活動を非常に警戒しました。そしてインパールの戦いではイギリス軍は戦線を縮小して戦力を集中して補給線の伸びきった日本軍を迎え撃つ作戦にでました。これは合理的で「イギリスのほうが賢い、日本陸軍は馬鹿」のように言われてきましたが、戦わずして領土を放棄することになり、インド国内に動揺を与えることに繋がり、非常に難しい判断だったのです。

  第31師団と行動をともにしたインド国民軍のアジミルシン大尉は国境を越えてインドに入った時、
「おお、わが祖国!」と土を両手で握りしめて喜びました。そしてイギリス軍内のインド兵の切り崩しと民衆宣撫を行いました。4人で一班を編成し、敵陣地に潜入し、メガホンで投降を呼びかけるのです。

 光機関・金子工作隊のエピソード

「朝点呼をとったら、インド兵が15人ほど多いのです。おかしいと思って調べたら、これが、なんと、ほんものの英印軍なんです。服装も同じだし、ことばも通ずるものだから、敵のインド兵が夜間偵察に来て紛れ込み、われわれのテントで寝ていたわけです」

  そしてアジミルシン大尉は
「われわれはチャンドラ・ボースを中心とするインド国民軍であって、インド独立のためにここまで来たんだ」と説明すると英印軍のインド兵はすっかり感激して「おれたちも一緒にやる」とそのまま工作隊に入ってしまいました。(この後寝返ってイギリス側へ戻ってしまった)

  この他こんなエピソードもあります。光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。

「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ」
いったん射撃は止みましたが、また射撃してきます。今度は日本人工作員が立ち上げって両手を広げヒンズー語で叫びます。

「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前たちに話しに行くところだ武器は持っていない」
そうすると今度はまたインド工作員が再び日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は根負けし、英インド軍の一個大隊すべてが寝返ってしまったというものです。

  しかし、日本軍の進撃は4月までで戦線は膠着し、7月には遂に撤退命令がでます。

  インド国民軍は6000人、そのうちチンドウィン川まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)。その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害となりました。

  日印双方の夢は費えてしまいました。しかし、このインパールの奮戦は後のインド独立の起爆剤となりました。

  英軍東南アジア総司令部司令官 ルイス・マウントバッテン大将

「かつて不敗を誇った日本軍も、半年の死闘に、戎衣(じゅうい:戦闘服のこと)も靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追い詰められたとき、前途に横たわるのは生き地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくしてついに敗れた。兵理である。しかし、そこには何かが残った」


「それは史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。もし『日本について神が使命をあたえたものだったら、それは強権をわがもの顔の西洋人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」


  征け征けデリーへ母の大地へ

  いざや征かんいざ祖国目指して

  征け征けデリーへ母の大地へ

  いざや征かんいざ祖国目指して

  進軍の歌は今ぞ高鳴る

  我等の勇士よ眦あげて

  見よ翻るよ独立の旗




参考文献
  展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
  PHP「インパール作戦」土門周平(著)
  吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
参考サイト
 WikiPedia「インド国民軍」
添付画像
 藤原岩市と握手を交わすインド独立連盟のプリタム・シン(1942年)(PD)



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征け征けデリーへ インド国民軍軍歌
http://www.youtube.com/watch?v=L4X2q4VAXJ0


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