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東京裁判の判決

国家に殉じた7人。


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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。判決は昭和23年(1948年)11月12日に出され、そのときの宣告の模様がYutubeにあります。子どもの頃にも何かで見た記憶があります。


 日米開戦時の首相だった東條英樹は「ウンウン」と頷いているようです。弁護人の清瀬一郎氏は「アアこれは立派に解脱したなと感じたくらい悟りすましたものであった」と述べています。広田弘毅はカメラ側に一礼していました。奥さんは既に自決しており、誰に向かって別れを言ったのか・・・


■絞首刑(死刑)
板垣征四郎
 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)


木村兵太郎
 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)


土肥原賢二
 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)


東條英機
 軍人、第40代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)


武藤章
 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)


松井石根
 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))


広田弘毅
 文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)


 判決は理由を付することになっていましたが、偏った日本の政治史、軍事史を羅列しただけで各被告の有罪を断じ、判決の理由になる事実と証拠の提示ありませんでした。量刑についてはオランダ判事のレーリンクの回想によると投票による多数決であり、11人中の判事6人で多数派として決まったと述べています。パール判事は全員無罪としたので投票には加わらず、ソ連判事は死刑反対を理由に加わりませんでした。あと、フランスのベルナール判事も加わらず、驚いたことにオーストラリアのウェッブ裁判長も死刑には反対の立場でした。「平和に対する罪」というのは事後法であるから死刑は適当ではない、と述べていたのです。投票は7対4ということになります。レーリンク判事は広田弘毅を無罪としたので、6対5で死刑になりました。主席検事のキーナンは「なんというバカげた判決か。(略) 松井、広田が死刑などとは、まったく考えられない」と漏らしていました。


 この判決の日、昭和天皇のご様子を側近の村井長正氏はこう語っています。


「陛下は顔を泣きはらして真っ赤な顔をしておられた。生涯忘れられないお顔である」
「私は恐れおののき、視線を落とし、二度とそのような陛下を見まいとして用件だけ述べ、顔を伏せたままドアを閉めた」


 刑の執行は昭和23年(1948年)12月23日の午前0時21分。意図的に皇太子殿下(今上天皇)の誕生日を狙ったものでした。刑場で東條英機は「天皇陛下万歳」と叫びます。そして東條の左右にいた大柄な米軍曹長に「ご苦労さん、ありがとう、ありがとう」と声をかけると、後ろにいた米軍将校4,5人が寄ってきて握手を求めたといいます。城山三郎の「落日燃ゆ」で広田弘毅は「万歳」をやらなかったとなっているそうですが、死刑囚につきそった教誨師(きょうかいし)の花山信勝(はなやま しんしょう)によると板垣、木村と3人で「万歳」を三唱したとしており、「落日燃ゆ」は捏造したと思われます。


 絞首刑となった遺体は粗末な木製の棺に入れられ横浜の火葬場で火葬に付せられました。遺族からの遺骨引取りの請求を占領軍はゆるしませんでした。遺骨は飛行機で撒き散らすことになっていたようですが、後の昭和30年(1955年)に進駐軍の命ということで白木の箱に入ったものを遺族へ渡されています。火葬当時は撒き散らされてはいかん、と思った三文字正平という弁護士が、火葬場より進駐軍が処理したあとの残りを盗みだしています。そして日本の主権回復後、松井大将の郷里である愛知県幡豆郡旗豆町の町長の好意により、三河湾公園内に埋葬されました。この碑には荒木貞夫元大将の筆で「殉国七士之碑」と大書しました。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
 WikiPedia「広田弘毅」「A級戦犯」
添付画像
 判決を聞く広田弘毅


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Glow of the sunset -02
http://www.youtube.com/watch?v=ykAHWDmV8rQ


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石原莞爾不在の東京裁判

石原莞爾が起訴されなかったわけ。


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 石原莞爾と言えば、満州事変を思い浮かべる人が多いでしょう。戦後のWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって戦争についての罪悪感を植えつけられている日本人は日本軍が満州事変を起こして侵略したと思っているでしょう。ところが石原莞爾は戦後の東京裁判で裁かれていません。同じ満州事変に関わった板垣征四郎は死刑になりました。WGIPに洗脳されていてもこういう不整合に気づいている人もいるかもしれません。実は私もその一人でした。実際には満州国は正当な国家であり、日本の侵略ではなく、満州と支那はそもそも別ものです。東京裁判はインチキ裁判でした。


 石原莞爾は昭和16年(1941年)には予備役になっており、終戦は講演先で玉音放送を聴いています。昭和20年(1945年)9月以降、全国に講演旅行を続けています。アメリカのジャーナリストのマーク・ゲインは関係者を取材し「日本は新しき救世主以上のものを得つつあった」と評しています。


 昭和21年(1946年)1月以降は持病が悪化し、入院しています。米、英、ソの検事が臨床尋問した際には「戦犯の中で第一級は、空襲、原爆投下で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙したトルーマンで、本当の元凶は鎖国の日本を脅かし、開国させ、日本を台湾、朝鮮、満州に赴かせたペリーである」と答えました。東条英機と意見が対立していたというではないかとの問いには、「東條には思想も意見もなく、意見のない者と意見の対立はない」と答えています。
 石原莞爾は「満州国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判など始められようか。私のいない東京裁判など滑稽である」とも言っていましたが、昭和21年(1946年)4月には石原莞爾は戦犯リストから削除されました。


 石原はそれでも昭和22年(1947年)5月に東京裁判酒田出張法廷へ板垣征四郎の弁護側証人として出廷し「満州事変は支那軍の攻撃に起因し、本庄繁関東軍司令官の決断による自衛権の発動である」と強調します。石原は、連合国の判事、検事を相手に一歩も退かず、堂々たる論陣を張り、ときには彼らを翻弄しさえしました。その見事な弁論と驚異的な頭脳は彼らを驚愕させ、最後には彼ら心に深い感激を与えるとともに、なぜ日本の戦争指導部は石原を遠ざけて用いなかったのか?と疑問に思ったといいます。


 石原莞爾が戦犯リストからはずされたのは病気を患っていたことが理由とされていたようですが、石原は「もし、証言台に立てるのであれば裁判官や検事たちに堂々と“日本の言い分”を述べてやるのだが」というようなことを言っており、日本陸軍最高の理論家が法廷に出現することを連合国側が避けたとも言われています。石原は言論で対抗しましたがGHQは新聞各紙に圧力をかけ、石原の言論を封じ、所属していた東亜連盟の解散を命じました。それでも石原はトルーマンとマッカーサー軍政を批判し続けました。


 石原莞爾は板垣征四郎が死刑判決を受けたとき、「石原も遠からず追いつくことと考えますから、若し道のあやしいところがありましたらお待ちください、道案内は自信がありますから」と伝言を書き、板垣の遺髪を国柱会の霊廟に納める、法華経を上げての簡素な葬式を手配しました。


 石原は昭和24年(1949年)8月15日、終戦からちょうど4年目に生涯を閉じています。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
 新潮45・2009.8「石原莞爾『終戦日記』で読み解く日本再建への執念」早瀬利之
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
  WikiPedia「板垣征四郎」「石原莞爾」


添付画像
  石原莞爾 毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」より(PD)


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東條英機 VS キーナン検事 ~ 東京裁判

キーナン敗れたり。


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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。日米開戦時の首相であった東條英機は戦犯として訴追されました。


 昭和22年(1947年)12月22日から裁判の東條部門は山場を向かえ、日米開戦についてキーナン検事の追求が始まります。12月31日は東條英機とキーナン検事は一騎討ちが行われています。


キーナン「あなたはすでに法廷に対して、日本の天皇は平和を愛することをあなた方に知らしめたと言っているが、これは正しいか」
東條「もちろん正しい」


キーナン「そうしてまた、日本臣民たるものは何人たるも、天皇の命令に従わないということは考えられないと言った。それは正しいか」
東條「それは私の国民としての感情を申し上げた。天皇の責任とは別の話です」


キーナン「しかし被告は、実際、米英蘭に対して戦争したではないか」
東條「私の内閣において戦争を決意しました」


キーナン「その戦争を行わなければならない。行え、というのは裕仁天皇の意思であったか」
東條「ご意思と反したかもしれませんが、とにかく私の進言、統帥部その他の責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが事実です」


 東條英機は開戦という国政に関する一大事は、内閣と統帥部の責任で為した最後の決定であって、天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も慣行上もないことを理路整然と言い切ります。


キーナン「首相として戦争を起こしたことを道徳的にも、法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか、被告としての心境を聞きたい」
東條「間違ったことはない。正しいことをしたと思っている」


キーナン「それでは無罪放免されたら、同僚とともに同じことをまた繰り返す用意があるのか」


ここでブルーエット弁護人が「これは妥当な反対尋問ではない」と異議を申し立てウェップ裁判長が容認し、質問を却下しました。キーナン検事は検事席に戻らず、さっさと退場しました。キーナン敗れたり、です。


 東條英機は自殺未遂で国民の評判を落としていましたが、これである程度回復しました。オランダの判事レーリンクはこう回想しています。
「実際、東條は裁判に対する態度によって日本人の尊敬を再び勝ち得ました。すべての被告人には自分自身で弁明する権利がありました。東條は非常に長い、非常に印象的なスピーチをして、その中で、彼は、自分の動機や日本政府の政治的到達点について説明しました。東條は自分の責任を否定しませんでしたが、『アジア人のためのアジア』という概念、日本が敵対勢力に包囲されるようになっていた事実、そして石油の供給削減のため日本の命運に関わる利権が危機に晒されたことを強調しました。あのスピーチは2日間続きましたが、日本の人々の視線の中に東條の威厳を取り戻しましたね」


 東條英機は大東亜戦争は「自衛戦争」であること、天皇陛下に責任はないこと、大東亜戦争は東洋民族解放のための戦争であったこと、を主張しました。これはもともとの日本の立場、主張です。当時の国民は厳しい検閲でモノ言えぬ中、東條英機がはっきりと日本の主張を述べたことによって溜飲を下ろしたのではないでしょうか。



参考文献
 角川学芸出版「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)


添付画像
 法廷で証言する東条英機(PD)


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東條英機大将の遺書 「以て天日復明の時を待たれんことを」
http://www.youtube.com/watch?v=Wtain67qJyM


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東京裁判で東條英機の頭をはたいた大川周明

本当に発狂していたのか?


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 昭和21年(1946年)4月から始まった極東国際軍事裁判(以降、東京裁判)では思想家の大川周明も起訴されました。この人は政治家でも軍人でもありません。 法廷で奇声を発したり、東條英機の頭をはたいたことで有名です。梅毒による精神障害と診断され、その後の精神鑑定では異常なしとされましたが、法廷でには戻りませんでした。大川は昭和5年(1930年)ロンドン軍縮会議での日本の弱腰外交を見て、このままでは戦争になる、と予見しており、かなりの見識を持っています。さて、この精神異常は演技だったのでは?という説がありますが、どうでしょうか。


 実は大川は東條英機の頭を2度はたいています。大川は水色の異様なパジャマに素足でゲタをつっかけ法廷に現れたりしています。大川は法廷で「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! “これは茶番だ”)」と叫んだりしています。この行為を「芝居小屋から脱出するため自ら演出して脱出に成功した」と見る人もいます。


 東京裁判で東條英機の弁護をした清瀬一郎は次のように述べています。
「大川君の頭脳が敏感であればあるほど、このショック(裁判で起訴されたこと)は大である。これがため精神に異常を呈することはありうることである。大川君は平素服装には意を用いる人である。パジャマをまとうて法廷に出るということが既におかしい。
(中略)
もともと本質的な発狂ではなかったので、2,3年の療養で治癒することができた。その時は東京裁判が終結していたという偶然の事柄が発生したのではないか。
ある人が帰宅後の大川君に、ああやったのは(東條のあたまをはたいたこと)気が狂ったのではないかと聞いたところ『いや、やっぱりおかしかった。二日酔いのような気分だったね』と答えたと伝聞した」


清瀬一郎弁護人は一時的な発狂だったという認識のようです。


 オランダの判事レーリンクもこの大川氏のことは印象深かったようで、後の回想で以下のように述べています。
「大川は『この裁判は正義の実現ではない、戦争の継続である』といったのだそうです。そういう意見を持つものは正常ではないと医師たちは言ったわけです!個人的には、私は、大川は非常に頭の良い人物だったと確信しています。頭が良すぎて精神の異常を宣告されたのです。彼は裁判の終わりごろに療養所から出てきました。彼は誰よりも頭が良くて、頭が良かったから患者を演じることができたのです」


 レーリンク判事は演技だと見ていたようです。それにしても「正義の実現ではない」という発言が正常ではないと捉えるとは連合国の認識が伺えます。


 東京裁判の速記者の寺戸満里子さんの話があります。
「いきなりパジャマ姿で法廷に現れたり、場違いに飄々(ひょうひょう)とした表情で検察官や裁判官の発言に耳を傾けたり、突然奇声を上げたりしていました。丸メガネ姿は有名ですが、私が見たときはメガネはかけていなかったかな。なんだか背骨が無いタコかクラゲのような、変な動きもしていました」
「私は今でも、『芝居だったのでは』と考えています。だって、すごく頭のいい人だったわけだし・・・どこかに計算があったのではないでしょうか」


 歴史学者の福井雄三氏が大川を診察した主治医の内村裕之博士に会ったことがあり、当時の話を聞いています。
「世間では、大川周明が戦犯の罪を逃れるために仮病で精神病を装い、裁判が終わるとたちまち正気に返った、などと噂されているが、自分が診察した限りでは、あれは紛れもなく脳梅毒の進行麻酔症状だった」


どうやら本当に病気だったようです。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)
 「新潮45」2009.8『速記者は見た!東京裁判 土壇場の人間学』菊地正憲
 PHP「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)


参考サイト
 WikiPedia「極東国際軍事裁判」「大川周明」


添付画像
 大川周明(動画より)


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東京裁判 - 東条英機の頭をはたく大川周明
http://www.youtube.com/watch?v=DiXcg36Oa-M



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東京裁判で原爆投下を追及したブレークニー弁護人

意外にもアメリカ人弁護人は大活躍した。


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 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。この東京裁判で原爆投下を追及したのは梅津美治郎被告、東郷茂徳被告の弁護をしたベン・ブルース・ブレイクニーで、アメリカ陸軍軍人・弁護士です。彼が原爆投下について言及すると同時通訳が停止したというのは有名な話です。


「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している・・・」


 ブレークにーはスチムソン陸軍長官が原子爆弾使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしました。これにはイギリスの検事コミンズカーが驚き、異議を申し立てます。


コミンズカー「連合国において、どんな武器が使用されたかということは本審理に何の関係もない」
ブレークニー「もし検事がハーグ条約第四をご存知なら、そのうちの陸戦法規にある、一定の種類の型の武器(注=毒ガス、細菌など非戦闘員にも損害を及ぼす武器)の使用を禁ずる、という条項をご存知のはずである」


ウエップ裁判長「かりに原子爆弾の投下が戦争犯罪であると仮定して、それが本件の何の関係があるか」
ブレークニー「それに対していはいくつかの返答ができると思う。その一は報復の権利である」(国際法では敵が違法行為をすれば、これに対して報復の権利が生ずる)


ウエップ裁判長「しなしながら、報復はこの行動が行われた後に起こるものだ」
ブレークニー「この被告たちは、原子爆弾の使用前とその以後に関することについて訴追されている」


ウエップ裁判長「あなたのいっていることは、議論の余地がある。私はそうは思わないが、原子爆弾が二個投下されたことにより、その後の日本のやった行為のあるものが、正当化されるかもしれない。あなたはハーグ条約第四条が死文化されたということに基礎を置いているようだが、その他の点はどうなるか」
ブレークニー「原子爆弾使用以前のことは、ほかの証拠で立証する。それ以降のことは報復的手段として正当化できると私は主張する」


ウエップ裁判長「それはわずか三週間(8/6から9/2)でも被告のだれかを無罪にすることができるかもしれない」
ブレークニー「三週間の期間にかかるところの検事側の証拠書類は、たくさんあった。たとえばマニラ事件・・・」


 東京裁判ではブレークニーのほか、ローガン弁護人は「日本からまず手を出すように彼ら(連合国)が予期し、希望したとおり、(日本が)自己の生存そのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」と述べたり、デービット・スミスという広田弘毅の弁護人が裁判長より尋問の範囲を干渉されたことを不当だと抗議し、法廷を立ち去りました。スミスは以降も「不当な干渉」だとガンとして譲らず法廷には戻ってこなかったものの、法廷の外で広田被告の弁護活動を行い、弁護が終わったとき帰国しています。東條英機の日本人弁護人である清瀬博士はこれらの米国人弁護人は「なかなか気骨があり、場合によればアメリカ自身の過ちでもこれをあぐるに躊躇しなかった」と述べています。


 オランダの判事だったレーリンク卿の回想によると、日本人弁護人は国家の名誉、天皇と日本の名誉を守るために裁判に臨んでおり、米の弁護人は依頼人の個人のためならその他の犠牲やむなしというスタンスだったと述べています。おそらくこうしたスタンスの違いが米国人弁護人の「ズバッ」とした弁護として際立たせたのではないかと思います。



参考文献
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 中公文庫「東京裁判とその後」B・V・A・レーリンク/A・カッセーゼ(編/序) 小菅信子(訳)


参考サイト
  WikiPedia「ベン・ブルース・ブレイクニー」


添付画像
 法廷でのブレークニー弁護人(動画より)


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大東亜戦争は戦争犯罪ではありません
http://www.youtube.com/watch?v=kd96pZzEKEM


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