かつて日本は美しかった

誇りある日本、美しい日本へ

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昭和天皇の独自外交

昭和天皇は独自外交を展開していた。


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 昭和20年(1945年)、大東亜戦争敗戦後の連合国占領下、昭和天皇はマッカーサーと11回も会見を行っています。特に昭和天皇は日本の安全保障問題に懸念を持っており、第3回会談では憲法九条に対して「世界の国際情勢を注視しますと、この理想より未だに遠い様であります」と述べられています。マッカーサーは「戦争をなくするためには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ」と説得しています。憲法九条の「軍隊を持たない」というのは日本弱体化だけでなくGHQに潜む共産主義者が革命を起こしやすくするために考えたことなのですが、マッカーサーはそれらに素直に従っていたということです。


 昭和22年(1947年)、日本社会党の片山内閣が発足。芦田外相は非武装で国連に安全保障を依存するという方針は非現実的と判断していましたので、講和成立後も米軍が日本の安全保障を確保し、代わりに日本が基地を提供するという特別協定の提案をまとめています。実は日米安保の原型は日本社会党が作っていたのです。しかし、この提案はアメリカ本国には届きませんでした。GHQ内で握りつぶしたようです。


 この頃、冷戦構造が芽生え始めると沖縄の軍事的価値が浮上し、米国では沖縄を米国に併合するべきという論と併合できないので信託統治にすべきという論がでてきます。このとき昭和天皇の「沖縄メッセージ」があります。沖縄は主権を日本に残したまま「長期租借方式」に基づいて行われるべき、というものです。よく反皇室派がこの沖縄メッセージだけつまんで沖縄を切り捨てたとか、基地がどうこう言いますが、赤化懸念や米国の論争といった背景があるのです。
 さらに大陸では共産党が国民党に勝利し、朝鮮半島に緊張が及ぶようになっていくと米国は反共意思を強くし、大統領特使ダレスを日本に送り込みます。マッカーサーべったりだった吉田茂は日本の非武装化を述べたところ、ダレスは国際間の嵐の激しさを述べ、激怒します。そして朝鮮戦争が勃発。ここで昭和天皇からダレス宛てにメッセージが送られます。このメッセージには吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できないので、安全保障問題は彼らをはずして行うべき、というものでした。このメッセージで講和への道筋がついたと言われます。


 このほかにも昭和天皇は日本に長く住んでいたフランス人のヨゼフ・フロジャックというカトリックの神父と接触して昭和23年(1948年)にローマ法王にメッセージを送られています。ローマ法王からも返信メッセージがあったようで、内容は謎ですが、なんらかの外交パイプを持とうとしていたと思われます。また、英国王室にもメッセージを送られています。昭和天皇独自の外交でGHQを牽制しようとしていたのかもしれません。


 昭和28年(1953年)4月、既にサンフランシスコ講和条約の効力が発生した後のことです。昭和天皇は東京裁判の主席検事だったジョセフ・キーナンが帰国するときに歓談していますが、キーナンは「今度の選挙で吉田氏、重光氏らのなかからだれを指名すればよいと思いますか」と質問します。そして昭和天皇はこう答えられます。


「いまは政治のことからまったく離れているので・・・」


 戦後まもなくの、政治混乱期に日本の将来を案じ、独自の外交を展開し、サンフランシスコ講和条約までこぎつけ、“ようやく政治から離れられた”というお気持ちだったのでしょう。



参考文献
  新潮45 2009.9「二重外交展開、占領下も『君主』でありつづけた昭和天皇」河西秀哉
  「歴史通」WiLL2009.10『野坂参三 共産政権の誕生』田中英道
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘 畑好秀(編)
参考サイト
  WikiPedia「片山内閣」
  沖縄県公文書館 "天皇メッセージ" http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html


添付画像
  昭和21年の昭和天皇 日本国憲法にサインしたときのもの(PD)


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大東亜戦争を戦った朝鮮人

大東亜戦争を勇敢に戦った朝鮮人がいた。抹殺された歴史!


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 大東亜戦争当時、朝鮮人は日本国民として大東亜戦争を支持し戦いました。


 朱 耀翰(しゅようかん 後に韓国国会議員)昭和16年(1941年)12月14日の米英打倒大講演会 演題「ルーズベルトよ答えよ」
「正義人道の仮面を被り、摂取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。・・・君は口を開けば正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、日本人が人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、 これに反対し、削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りをあたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国のものであったか。・・・しかし、君等の悪運は最早尽きた。・・・一億同胞・・・なかんずく朝鮮半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜の聖戦の勇士とならんことを誓っている」


 李 光洙(イ・グァンス 日本名、香山光郎 文学者)
「私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れずこの聖戦完遂に邁進する者であるからして、子々孫々の栄華を得るであろう」


 昭和19年頃に東京に留学していた朝鮮人が、京城(ソウル)の朝鮮人街の映画館に入ったところ、ニュース映画で上映される日本軍の戦況に関するニュースに観客が熱狂する様子を見て驚いたといいます。東京の映画館でさえこれほどではなかったそうです。


 昭和13年(1938年)に軍隊が志願兵を募集したところ、定員400人のところ2,946人が応募しました。そしてその後の募集も驚異的な倍率になります。


1939年  12,348名志願   613名合格
1940年  84,403名志願 3,060名合格
1941年 144,743名志願 3,208名合格
1942年 254,273名志願 4,077名合格
1943年 303,394名志願 6,300名合格


 崔貞根(高山昇)中尉は沖縄戦で敵鑑哨戒中、敵艦船群を発見し、敵艦船めがけて突っ込みました。急降下爆撃中に被弾して帰還は望めなかったため咄嗟の判断だったといわれています。以下その感状です。

「身は半島に生まるるも 至誠忠常に国を憂へ 率先して陣頭に立ち 部下のコウ望殊に厚し」


 金尚弼(きん しょうひつ)大尉 昭和20年(1945年)4月3日、沖縄沖で敵艦に体当たり(神風特攻隊)して戦死。生前、父と兄に寄せた言葉。
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁には我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです」


 昭和20年の硫黄島の戦いでも朝鮮人軍属はまともな武器もないのに勇敢に戦ったことが記録されています。爆雷を抱いて敵戦車に突入した人も一人や二人ではなかったといいます。
「元山地区陸戦隊の大多数は半島人にて編成しありたるところ、勇猛果敢昼夜なき白兵を持って敵を撃退。指揮官の下、同地を死守する統制ある戦闘を実施しつつあり、陸海軍賞賛のマト・・・」(大本営宛て電文)


 現在、韓国では日本に協力したものは「民族の反逆者」と言われます。果たしてそうか?韓国人も先人は崇高な使命感を持って大東亜戦争を戦ったのではないでしょうか。あるものは大東亜共栄圏の理想に燃え、あるものは皇国民としての使命感を持ち、あるものは朝鮮独立のために・・・。


 朴鉄柱(韓日文化研究所)昭和42年(1967年)ソウル
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼビッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。二百数十万の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである」


 大東亜戦争を戦った朝鮮人。彼らの成し得たことは誇るべきものだったのです。



参考文献
 草思社「親日派のための弁明」金完燮(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史」(続)渡部昇一著
 小学館SAPIO 2009/9/9「『民族の反逆者』か『祖国の英雄』か、2つの歴史が引き裂く朝鮮人将校の『特攻精神』」裵淵弘
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
 株式会社国際規格「日韓2000年の真実」名越二荒之助(編著)


添付画像
  朝鮮人志願兵による市街演習(日本人として戦った朝鮮兵より http://nandakorea.sakura.ne.jp/frame.html)


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硫黄島決戦

決死の敢闘、硫黄島玉砕。


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 昭和20年(1945年)2月19日、米軍が硫黄島に上陸します。よく、「沖縄は日本唯一の地上戦」といわれますが、これは誤りです。テレビでもよく間違ったまま報道されます。もう少し言うと南サハリンや千島列島でも戦闘があります。日本領という定義だとペリリュー島も該当するでしょう。


 小笠原方面最高指揮官・栗林忠道中将は昭和19年(1944年)5月に父島へ赴任し、米軍は硫黄島に来ると予見して、全長28キロに及ぶ地下陣地構築を指示します。サイパンの水際作戦は艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えたからです。地下陣地の有効性はペリリューで実証されました。


 19日、米軍は上陸したものの一発の銃弾も飛んでこないのを不思議に思いました。島南部の飛行場占拠を目指し進みます。上陸地点の海岸が兵員と物資、弾薬でいっぱいになった午前10時頃、遂に日本軍の隠蔽陣地から猛射を浴びます。海岸では塹壕も掘れず米軍の死傷者は続出しました。進めばいつの間にかどこからともなく猛射を浴びます。ロケット弾が「ヒュー」という音を立てて飛んできて米兵の四股はバラバラになって吹き飛びました。あまりの惨状に発狂する米兵が続出したといいます。栗林戦法は恐ろしい程の効果を発揮しました。米軍は平文で電報を打ちます。

「われわれはかつて見たこともない精強な日本軍に遭遇し、1ヤード、1ヤード血の進撃を続けている。病院船を回航せよ、病院船を回航せよ」


 21日、木更津からは神風特攻隊「第二御楯隊」が組織されます。


 定森中尉
「敵艦に体当たりする一瞬は二百七十分の一秒ぐらいだという。敵艦の二百メートル前からが二秒、自分は何とか笑って突っ込めそうだ。単機で巨艦上の敵兵一千以上に挑むのは男冥利につきますわ」


 第二御楯隊は空母サラトガ、護衛空母ビスマルク・シーに突入。サラトガは大破戦場離脱、ビスマルク・シーは轟沈。護衛空母ルンガ・ポイントほか輸送船らも大火災を起こします。これに硫黄島の守備隊が呼応して米砲兵陣地を猛射し、夜間には米爆薬庫を襲撃し爆破に成功しました。硫黄島の兵士たちは息を飲んで特攻を見つめていました。


「きたぞ。俺たちのために死んでくれるんだ」


南海岸のほうから軍歌が高唱されます。全滅を待つばかりの陸軍残存部隊高唱しているのです。(歩兵の本領)


 万朶(ばんだ)の桜か襟の色
 花は吉野に嵐吹く
 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
 散兵戔(さんぺいせん)の花と散れ


軍歌は次第に島の北にも広がっていき、全島を揺さぶる大合唱となっていきました。


 栗林戦法は米軍に大打撃を与えましたが、日本軍も次第に戦力を消耗していき、翌月の3月17日「帝国海軍万歳、勝利を確信す」の電文が海軍の最期になります。3月18日には栗林中将から最期の電文が大本営に入電されます。
 3月16日、米軍は硫黄島の占領を正式に発表。「26日と9時間の戦いで海兵隊戦死傷者24,127人、その歴史168年で最も厳しかった」


 3月26日、栗林中将、市丸少将らは最期の突撃を敢行。この奇襲は成功し、米軍の戦闘機整備隊と工兵大隊を殺傷し、建設大隊や野戦病院、米軍トラック30両を爆破炎上させました。結局斬込隊262名が戦死。翌27日までに栗林中将を初め陸海軍の司令官と幕僚は自決して果てました。


「硫黄島」を書いたビル・D・ロス
「硫黄島は集団の勇気および個人の勇気が問われたランドマーク(画期的事件)であった。その戦いは、人類がおそらく二度と目撃するとは思えないほど強烈なものであった」



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫「硫黄島玉砕」多田実(著)
 新潮文庫「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯久美子(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」


添付画像
 硫黄島戦闘の様子(米軍撮影 PD)


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硫黄島決戦 ~暁に祈る~
http://www.youtube.com/watch?v=LSB2JmV5r9s


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ブラック・デス・アイランド ~ 硫黄島

硫黄島の戦い。


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 昭和20年(1945年)2月19日 ~ 3月26日、硫黄島で日米死闘が繰り広げられ、日本軍は玉砕しました。日本側戦死 17,845~18,375 (軍属82を含む)、米側戦死 6,821 戦傷 21,865。米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのんだといいます。


 昭和19年(1944年)秋になるとマリアナが陥落したせいで、硫黄島は最前線となり、将兵も「任地硫黄島」といわれただけで、顔から血が引くようになっていました。


 硫黄島の戦いは過酷な戦闘がよく言われていますが、米軍上陸前からさながら地獄の様相でした。まず硫黄島には水がない。雨以外の飲料水はゼロです。そこに二万の将兵がいるわけです。50メートルほっても水は出てきません。海岸近くを掘ると硫黄混じりの塩水が出て来て炊事はこの水で行いました。地下壕を掘ると中は40度から50度の温度になります。さらに米上陸前からも米軍機や米潜水艦の攻撃によって本土からの輸送も困難になってきて、食料も不足し、度重なる空襲の恐怖も加わり、発狂するもの、自殺するもの、逃亡するものが現われました。中には自分の銃で自分の足を撃ち、内地に送還してもらおうとするものもいて、「敵前従軍免脱」として銃殺刑になったものもいます。


 米軍が上陸してくるほんの10日ほど前の昭和20年(1945年)2月10日、根本正良少尉らの一式陸攻隊は硫黄島へ緊急強行輸送を行います。硫黄島に着陸し、荷物を下ろすと何気なしに折り詰め弁当を3/4食べて残りをすてると、滑走路の補修工事をしていた現地兵が、それを拾い上げ、飯粒を一粒一粒集めはじめました。根本少尉はそれをみて愕然とします。そして機内に戻ってありったけの帰路のための弁当をかき集めて現地の兵士たちに差し出しました。兵士は弁当を将校に渡すと、将校は「俺はいい。皆でいただけ」といい、それを見ていた根本少尉の眼に涙がにじみました。


 硫黄島へ食料を運んだ輸送艦に荷揚げ作業のために現地の兵士が艦上にあがってきたとき、船の乗組員は思わず息をのみます。どの現地兵士も真っ黒で皮膚につやが無く、手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていたからです。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていてました。船の乗組員は「火星人だ。まさしく人間ではない。火星人だ」と思ったそうです。


 2月11日、11万の大兵力を満載した486隻の米大艦隊はサイパンに集結していました。13日、米機動部隊が北上。14日硫黄島作戦牽制のため本土を直撃する別働隊が北上。日本側は米軍は沖縄に来ると予想していました。16日になって硫黄島に来ることを知ります。
 硫黄島の兵士たちは妻子の写真を焼き払い、決戦に備えてました。16日午前7時、米艦隊は硫黄島に向け、いっせいに砲門を開きます。17日午前10時半頃砲撃が止まり、米駆逐艦と大型砲艦艇約20隻海岸に急進してきます。島の南端にある摺鉢山(すりばちやま)砲台は米の集中砲爆撃で崩壊寸前となっていました。「敵を揚げて叩く」栗林戦法を守っていたのでは自滅の恐れがあり、一矢報いることを決断します。健在な砲を米艦艇に向け砲撃を開始。米艦艇は無数の命中弾を受け、火を吹き、沈み、乗組員多数が吹っ飛びました。


 17日夕刻から続々と米船団は集結します。硫黄島は南の島だというのにさんご礁の砂浜も緑の椰子もなく、異様な形の摺鉢山と低く黒い断崖と砂浜が続いているだけの島です。島へ砲撃すると島から吹き上がるのは茶褐色の土煙だけでした。上陸を前にした米兵はこう言いました。


  ブラック・デス・アイランド



参考文献
 展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 朝日文庫 「硫黄島玉砕」多田実(著)
 文春文庫「硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ」津本陽(著)
参考サイト
  WikiPedia「硫黄島の戦い」


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  硫黄島地上作戦を支援する米F6Fヘルキャット(PD)


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実録 硫黄島玉砕
http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY


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近衛上奏

共産主義を警戒していた近衛文麿。


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 昭和20年(1945年)1月9日、米軍はルソンに上陸。2月11日、連合国によるヤルタ会談が行われ、ヤルタ密約が取り決められソ連の参戦が決定します。(日ソ中立条約の一方的破棄) 日本は知りません。このヤルタ密約の発表は1年後に行われています。


 2月19日、硫黄島に米軍が上陸。


 2月に入ってから重臣たちが昭和天皇にそれぞれ拝謁を行っています。7日に平沼騏一郎、9日に広田弘毅、14日に近衛文麿、以降、若槻礼次郎、岡田啓介、東條英機と続いています。近衛文麿は3年ぶりの昭和天皇への謁見でした。
 近衛は昭和天皇に「近頃お目にかかれませんでしたが、いかがでいらっしゃいますか」と言うと玉座の前にある椅子の前まで進みます。こうした行為は普通の臣下のものには出来ない行為で、近衛家という「五摂家」ならではであり、近衛はどっかりと椅子に腰を下ろしました。昭和天皇は「近衛はいかがか」と声をかけると、近衛は「恐れ入ります。お陰様で元気にしております」と答えました。そして起立すると、モーニングのポケットから和紙を取り出し読み上げます。


「敗戦は遺憾ながら最早(もはや)必死なりと候。
 以下、この前提の下に申し述べ候。
 敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん 小さな傷のこと)たるべきも、英米の興論は今日までのところ、国体の変更とまでは進みいらず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)したがって敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こるであるべき共産革命に候」

「つらつら思うに我が国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於いては、ソ連の異常なる進出に御座候」「特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有・・・」


 近衛文麿は勝利の見込みの無い戦争は一刻も早くやめ、共産主義革命に備えるべきとしています。これは戦況と内外政治情勢をみた的確な判断といえますが、米国は講和に応じる気はさらさらないこと、陸軍の動揺など重要な部分が欠けています。昭和天皇は近衛文麿の上奏にある程度同調されるものの、陸軍の動揺を考慮して「もう一度戦火を挙げた上でないと、話はなかなか難しいと思う」と述べられています。近衛は「そのような戦果が挙げられるとはとても思えません」と述べます。ここで陸軍の動揺を抑える元帥にすべき人物として、阿南惟幾(あなみ これちか)大将の名前があがりました。


 この後、近衛上奏文がもとで吉田茂が逮捕されています。上奏文の準備は吉田らのグループが行い、近衛を説得したものでした。近衛文麿も結構危ない橋を渡ったといえます。


 このほか広田弘毅はソ連との戦争を回避するよう上奏しており、東條英機は断固たる抗戦論を述べます。梅津参謀総長は台湾に敵を誘導して一撃する論を上奏しています。


 こうした近衛文麿の動きは評価する向きもありますが、どうもこの人の言動はふらふらしており、終戦直後に昭和天皇の責任を口にしたり、東條英機の責任を強調したり、マッカーサーと二度会見し、憲法改正に乗り出したり、ということを行っています。そして反共の近衛はGHQ共産主義者のターゲットになり、戦犯指名され逮捕状がでると出頭を拒否して自殺しました。昭和天皇は近衛文麿の自殺の報を聞き、たった一言「近衛は弱いね」とおっしゃったといいます。



参考文献
 角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 「昭和天皇論」小林よしのり(著)


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 近衛文麿(PD)


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昭和宰相列伝2 近衛文麿他 (1937-1941)
http://www.youtube.com/watch?v=74h-Pvya1Ow


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